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ベストセラー

雲ながるる果てに

★★★星星

2006/8/23
1953年,日本,101分

監督
家城巳代治
脚本
八木保太郎
家城巳代治
直居欽哉
撮影
中尾駿一郎
高山弥
音楽
芥川也寸志
出演
鶴田浩二
木村功
高原駿雄
加藤嘉
山岡比佐乃
神田隆
岡田英次
利根はる恵
山田五十鈴
preview
 昭和20年春、九州南部の特攻隊基地で出陣を控えた学徒兵たちがのんきに過ごしているところに空襲を受ける。特攻隊のひとり秋田が戦死す、深見も銃弾を受けて負傷する。その深見は近くの学校の教師瀬川に思いを寄せ、別の特攻隊員松井は芸者といい仲になっていた。それぞれの思いを残しながら出陣のときが迫る…
  ベストセラーとなった学徒航空兵の手記集「雲ながるる果てに」を八木保太郎、家城巳代治、直居欽哉が共同で脚本化し、家城巳代治が監督し、映画化した作品。公開されたのはGHQ戦争終了直後の53年。
review

 若き特攻隊員たちの思いとはどのようなものか。運命付けられた死に向けた準備をする彼らの生活はのんきなものだ。もちろん時に空襲があり、それで一人が命を落とすという場面が映画の冒頭に描かれるが、それ以外では食べ物も充分にあり、夜兵舎を抜け出しても咎められず、訓練もそれほど厳しくなさそうだ。
  のんきに振舞う彼らは目前に迫った死をそれほど深刻に捉えていないように見える。出撃命令が下るまでの命、それは冒頭の手紙で大瀧中尉が書き送るように20年の人生のお釣りのようなものなのである。そうは言ってももちろん未練がないわけではない。それがあからさまに表れるのは女に対する気持ちだ。決まった情婦を持ち毎日情交を重ねる松井中尉は現世に対する未練を象徴する存在だ。しかし、そんな彼でも自分の運命には従い、それには向かおうという意図も、それに対する不満も見せる事は無い。
  彼らの態度の背後にあるのはどのような心理なのか。主人公の大瀧中尉の態度を見ていると、彼は常に自分自身を鼓舞し、説得しているように見える。銃創によって出撃することが出来なくなった戦友の深見中尉に「大義のために死ねるのか」と訊かれたとき、彼は「個人の生死を越えた民族的な自己統一」のために自分ひとりの命は惜しくは無いと言い、自分の命は「天皇陛下からお預かりしたものだ」と断言する。そして、出撃命令が下り本当に死に直面したときも歯を食いしばり、泳ぐことによってエネルギーを発散させて、その死を受け入れるのだ。
  そのような行動を見ていると、彼らは実際のところ自分の言っていることを本当に信じているのか疑いたくなってくる。しかし、彼らは自分だけ生き残りたいと思っているわけではない。出撃の日、松井中尉がいつものように女のところにいて遅刻しそうになると、戦友の一人が「自分が代わりに行きます」と名乗り出るのだ。そして彼らは出陣するとき戦友たちに「先に行く」といい、ことあるごとに先に死んだ者たちを引き合いに出す。これらの態度を見ていると、彼らは戦友のために死んでいるのではないかと思えてくる。先に行った戦友たちの死を無駄にしないために、そしてあとに残る戦友たちに希望を与えるために、彼らは死んで行くのではないか。彼らは戦友とともに戦い、ともに死んで行くことにこそ意味を見出している。それはお国のためとか天皇陛下のためという抽象的な大義名分よりもはるかに自分を託しやすい考えではないだろうか。もちろん、大瀧中尉のようにあとに残された家族のためということ考えられる。敵国の軍靴に日本の国を踏ませないために自分の命を盾にする。それもひとつの自分の死の意味づけとなりうるだろう。

 しかし、そのどちらの意味づけも、今から見れば、軍国主義という制度によって巧妙に用意された意味づけなのではないかと考えられる。この映画ではそれがわかりやすくなるように、飛行長を、特攻隊員を道具としてしか考えていない悪人に仕立て上げ、言葉でいうだけのペラペラな人物として描いている。そして最後には、不成果に終わった出撃に対して「特攻隊員はいくらでもある」という言葉を吐かせるのだ。そして、その直後に教室で歌を歌う子供たちのカットをつなぎ、次の特攻隊員というのがその子どもたちであるということを明確に表現する。このモンタージュは背筋も凍るほどに効果的だ。
  こうして強調された、上官=システムの卑劣さによって彼らの死は浮かばれないものになる。特攻隊員のほうも出撃の直前に一人がボソッと「俺たちは死ななきゃ文句も言えないもんな」とつぶやき、彼らが犠牲者であるということを明らかにする。
  つまり、この映画を見る限り、特攻隊員たちは日本の軍国主義の犠牲者であるのだ。その犠牲者を、その軍国主義国家の頂点にいた天皇を中心とした神道の神社で悼むということは果たして可能なのだろうか。死んで靖国に帰ると考えていた兵隊たちも、自分たちが信じていた日本という国に裏切られたのだと知ったら、自分がそこに祭られることをどう捉えるだろうか。そんな疑問が私の頭には去来する。私が彼らの死を悼むときには、彼らを殺した軍国主義の嫡子のような靖国神社で悼みたいとは思わない。死を悼むというのは、生きている人間の側の問題である。だとすると、今の靖国神社のあり方というのには問題が在ると考えざるを得ないのではないだろうか。
  彼らの死について考えると、どうしても彼らの死を悼む施設としての靖国神社に対する疑問が浮かんできてしまう。もちろんそれは現在の社会状況という文脈から見た場合に浮かんでくる疑問なわけだが、そのような疑問が浮かんでくるという事はつまり、私たちは60年前に終わったはずの戦争をまだ消化しきれていないということなのではないか。

Database参照
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監督順: 
国別・年順: 日本50年代以前

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