| この映画の題名『ピグマリオン』はこの映画の原作であるバーナード・ショウの戯曲が題材にとったギリシャ神話に由来する。そのギリシャ神話とは、彫刻が趣味の王ピグマリオンがアフロディテをモデルに彫った人形ガラティアに恋をしてしまい、神様に魂を入れてもらって妻に迎えるという話である。
この映画は貧しい花売りの少女をその人形に見立てて、彫刻を彫るように貴婦人としての教育を授けたヒギンズ教授がその娘に恋をしてしまうという話である。ただ、このように由来となった神話と比較してみてもこの映画にとっては何も意味がないほどにバーナード・ショウはこの物語に大胆な翻案を加えている。ただひとつ、このもととなった神話を持ち出す意味があるとすればそれは、この物語の主人公がイライザではなくヒギンズであるということを示唆しているということだろう。題名の『ピグマリオン』が指す人物はヒギンズであり、だからこそヒギンズが主人公なのである。
そして、主人公がイライザなのかヒギンズなのかということは実は重要な問題である。もしイライザが主人公なのだとしたら、これは単に貧しい娘がブルジョワのなりあがるという物語に過ぎないことになり、『プリティ・ウーマン』と同じ話ということになる。しかし、ヒギンズが主人公となるとそこにはブルジョワの人間観や社会階層の変化という問題が絡んでくるのだ。
ヒギンズはロンドンの様々な土地の言葉を研究しているわけだが、そこには常に階層の問題が絡んでくる。貧しい地域で生まれた人々は粗野な言葉を使い、結局貧しいままでいる。しかし、裕福な生まれた人々は上品な言葉を使い、生涯豊かなままなのである。だから、ヒギンズにとって粗野な言葉を話す人間=下等な人間である。その証拠にヒギンズはイライザをずっと人間以下の存在として扱い続ける。上流の言葉を身につけても中身は下等な女のままであり、自分たちとは違うのであると考え続けるのである。
だから彼はイライザに恋をしたということを素直に受け入れることができない。イライザはあくまでも自分が指図し、教育する相手であり、恋などという対等な関係の対象ではないと考えてしまうのだ。
しかし、その考え方は最後には変わる。それはこの時代のイギリスの人々の階層に対する考え方の反映だ。明確な階級社会が崩れ、人々が平等になって行くその変化を、バーナード・ショウは人間と彫像という明確な区別が霧消する神話になぞらえて描いたのである。
もちろん、これはコメディ映画であり、そんな小難しいことをいちいち考えなくても楽しく見られるし、この映画のスクリューボール・コメディ的なスピードはそんなことを考える暇を与えないものでもある。
ただ、単純なコメディとは違う違和感を(特にヒギンズに)覚えたとき、作品について考えて見ると、そのような時代性が浮かび上がってくるということだ。コメディとしてはいまいちという感じもしないではないが、笑いの部分を犠牲にしてでも何か他にメッセージを込めたいというあたりがさすがバーナード・ショウというところいうところなのかもしれないとも思う。
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