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肉弾

2006/6/5
1968年,日本,116分

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          ★★★★星  
     
 
“あいつ”は昭和二十年、工兵特別甲種候補生として訓練を受け、乾パンを盗んで裸にされたりしながらも何とか訓練を終えた。終戦間近の8月、彼がつくことになった任務は“肉弾”として上陸してきた敵戦車の下に爆弾を仕掛ける特攻隊だった。その任務につく前の日、1日だけの外出を許された“あいつ”は古本屋で本を買い、女郎屋で女を買おうと考えた…
  岡本喜八が自分の戦争体験をもとに“肉弾”と呼ばれる特攻隊員の境遇を描いた戦争映画の名作。
監督 岡本喜八
脚本 岡本喜八
撮影 村井博
音楽 佐藤勝

出演 寺田農
     大谷直子
     伊藤雄之助
     小沢昭一
     田中邦衛
     笠智衆
     北林谷栄
     中谷一郎

 

 

 

 

 

 岡本喜八という映画作家の本質とは何か。それに答えることは非常に難しいが、この作品は岡本喜八の作品の特色が非常によく現れている作品なのではないかと思えるということは言える。それは、この作品が戦争と特攻隊という非常に思いテーマを扱っていながら、その表象においては非常にコミカルで悲壮感がまったくないという点だ。岡本喜八という映画作家は常に、シリアスさとコミカルさの両面を持ちながら、コミカルな映像の中にシリアスなテーマを込めてきた。この作品はそのほとんどが漫画的な映像によって構成されているということもあって、非常にコミカルであり、しかもシニカルにはならず、戦争年という非常に重く重要なテーマを見事に描き出しているのだ。それによってこの作品には戦争、死、愛、性といった喜八的なテーマが溢れることになる。喜八ファンでなくとも、この作品を観れば喜八的なものの一端に触れ、その本質を垣間見ることが出来るのではないかと思う。

 では、この作品が孕むテーマと意味と無意味を具体的に見ていこう。この作品の主人公は、特攻隊となって命を賭して国を救うという決意を決めた青年である。そして物語の中心となるのは、その青年が最初で最後に経験する恋である。目前に迫った死を前提とした恋、それはどこかで非常に絶望的なものであるはずではないだろうか。しかし、この作品ではそのようには描かれない。“あいつ”は自分が特攻隊となって命を失くすということを毛ほども疑っていない。にもかかわらず、女学生に恋をし、勝手に「ふたりとも生きていられたら結婚するんだ」なんてことを言うのだ。
  彼にとって死とはいったい何なのか。彼に訪れる死とは、彼の意思とはまったく無関係に訪れる死である。彼が特攻隊員となって死に赴くのは彼が望んだからではなく、そう命じられたからだ。もちろん彼もそれを嫌がったりしているわけではないが、彼はただ漠然とその死を受け取っているだけのように見える。明日にも死ぬから女を買い、死ぬまでの時間を埋めるために分厚い本を買う。その行為はまるで死というものが日常からほんの少ししか離れていないところにあるものだという印象を与える。
  つまり、彼はどうも死というものを漠然としか捉えていないようなのだ。自分が死ぬということをどこか別の世界で起きることのように捉えているように見えるのだ。それはおそらく、その命をかける対象が国という漠然としたものだからだろう。岡本喜八は戦争の無意味さということを描いているが、それが無意味であるのは、国という人々から遠いところにある何か大きなもの同士が争っているだけのものであるからだ。その争いがそれに巻き込まれる人々には何の意味もない。その争いがどのように終わっても人々には大きな違いはないのである。だからそれは無意味であり、そのために命を落とすのも虚しい行為なのである。“あいつ”はその虚しさを感じないようにそれを遠くにあるもののように考えようとしているのかもしれない。その死はまったくリアルではなく、その意味をつかもうとしてもするりと手から滑り落ちてしまうようなものなのだ。
  しかし、彼は恋をして始めてその死とこの戦争をリアルなものと捉えることが出来るようになった。彼は恋をした女学生を「守るため」に戦うことを決意するのだ。映画の中でまさに「守るべきものがある」というようなセリフが吐かれるように、彼は守るべきものを見つけ、命をかける意味を見つけた。
  このような“命を賭けるべき理由”というのは岡本喜八の作品の中で様々な意味を持って現れるものだ。戦争や争いの無意味さを描きつつ、その中に巻き込まれた人々の生自体が無意味なものとならないためには、彼らに彼らなりの“命を賭けるべき理由”がなければならない。岡本喜八は戦争の無意味さを描きながら、その普遍的な理由を探し続けた(それについては、今日の論考で詳しく)。この作品もその探求につながるものとして作られているのだ。

 テーマ的にもそのように戦争の無意味さと死というテーマを描き続けているわけだが、映画、特に映像の作り方という点でもこの作品はこれ以前の作品と連続性を持つ。それは、映像によって笑いを誘うコミカルさを演出するもので、そのためにマンガ的な表現を多用するというものである。
  マンガ的というのは、たとえば「牛」とか「豚」とかいうセリフがあると、その牛や豚の映像(イラストだったりする場合もあるが)をインサートしたりという映像ギャグがあるという点を主にいう。この牛とか豚とかいうのは主人公が区隊長と会話している場面のことだが、この場面はいわば新兵が教育係の上官にいじめられている場面であり、このセリフのままでシリアスな場面にすることが出来るはずなのに、岡本喜八は牛やら豚やらのイラストを挿入することでこのシーンをコミカルなものにする。
  それ以外でも、セリフでいわれたことがそのすぐ後に起きたり(たとえば3人の看護婦のシーン)といういわゆる「リアルではない」ような描写が多用される。このリアルさと裏腹の表現方法がこの映画をマンガ的と感じさせる要因なのだろう。
  これはまずシリアスな物語をコミカルなものにするという狙いがあるわけだが、リアルさを欠いているという点に注目すれば、“あいつ”が死に対してリアルな感覚を持っていなかったこととも通じ合うのではないかと思う。現実からリアリティが奪われるということ、それによって笑いが生まれることもあれば、現実感の喪失による悲劇が生まれることもある。深く読んで行くと、そのようなことも読み取れるのかもしれない。そして、そのようにリアリティから離れて行く笑いとは、ストレートないわゆるベタなギャグというようなものではなく、どこか斜に構えたようなシュールなギャグである。そのような笑いはおかしさとは裏腹にどこかに瑕がある。その瑕は喜劇の裏にコインの裏面のようにしてある悲劇をほのめかす。
  そのようにして重いテーマの物語からある程度リアリティを奪うことで、軽妙なものとして映画を作り上げるのが岡本喜八の特有のスタイルなのである。そして、外見上は軽妙であるにもかかわらず、そこにつけられて傷からは常に悲劇が顔をのぞかせる。そのバランスを変化させることで岡本喜八は様々な作品のバリエーションを生んできた。だから彼の作品は非常に多彩に見えるのだ。
  しかし、根底にある問題意識と作り方はどれも同じでもあるのだ。 この作品は、そのバランスが非常にいいということだ。絶妙の笑いと絶妙の重さ。観客を笑わせながら考えさせる。この映画を見て感じるそのような映画のメッセージがあふれ出るということこそがまさに岡本喜八なのだと思う。