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このような映画をなんと言えばいいのだろうか。観た印象をそのまま言えば、「穏やか」な映画だ。映画はふたりの按摩が山道を歩き、目明きの悪口を言ったりすると言う軽いコメディタッチで始まる。目が見えず、触ってもいないのに美人だとわかってしまう徳さんは東京から来た女に恋をしてしまう。それと一緒に来た子供ってのがいて、それにおじさんってのがいる。さらにハイキングの学生の団体なんてのもいる。そんな中で窃盗事件がおきるわけだが、それで大騒ぎになるわけではなく、映画はそのまま穏やかに進んでいくのだ。
その穏やかな印象をさらに強めるのが、シーンとシーンの間のゆっくりとしたフェード・アウト/インである。同じ松竹の監督でも小津はほとんどカットアウトしか使わず、映画も硬質な印象だったわけだが、この作品はほとんどのつなぎがフェードで、それもかなりゆっくりとしたフェードが使われているので、どうしてもゆったりとした印象になる。
それでも、もちろんプロットはしっかりとしていて、窃盗事件と東京の女をめぐる恋の行方という二つの要素が絡み合う。とくに窃盗事件のほうは、限られた登場人物の誰が犯人なのか(推理モノの定石からするとその容疑者となりうるのは東京の女と小僧のおじさんのふたりしかありえないのだが)というのが頭に引っかかったまま映画を観ることになる。このあたりが非常に微妙だ。微妙というのは面白くないということではなく、絶妙なさじ加減だということで、穏やかではあるが観客をひきつけ、飽きさせず、しっとりとした印象を与える。
このような映画を観ると安心する。今のスペクタクル映画とも違う、アート系映画とも違う、そして名作然とした古典とも違う、穏やかで純粋な映画、映画を観るというのはこういうことだった。世の中の様々なことを忘れてほっとする、そんな空間が映画館だった。観客が一体になって熱狂する映画ももちろんいいが、観客のそれぞれがそれぞれにほっと粋をつき、肩をなでおろして、穏やかな温かい気持ちで映画館を出る。そんな映画が昔はあった。当時の松竹のいわゆる蒲田調とは映画のスタイル云々よりも、観客にそんな気分を与える映画だったということなのだろう。それを担った第一人者がこの清水宏だった。
現在、この清水宏とともに佐々木康や島津保次郎が見直されているのは、現代の人々がこの当時(戦争が現実の生活に入り込んでいた当時)と同じように映画の中に安心感を求めるからなのではないだろうか。
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