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このロザリーという人物はいったい何者なのか。さまざまな名義のクレジットカード、小切手を使った詐欺、さまざまな方法でお金を捻出し、子供たちに贅沢三昧の性格を送らせる。子供たちに車やらPCやらを買い、どう見ても業務用のビデオカメラを担いで、シェフ志望だという息子の贅沢三昧の料理を撮影する。
そして、教会に行ってはそのことを懺悔するのだ。彼女の信じるところによれば、懺悔すれば何でも許され、罪が罪でなくなるというのだが、宗教的な意味の罪としてはそういうこともありうるのだろうが(本当はありえないと思うけれど、彼女の中ではそのような考え方が成り立っているということはありえることだ)、現実的な罪としては懺悔をしたところでそれに何のかわりもない。だから、映画の展開としてはどこかで彼女の行動が破綻し、物語が展開していくのだろうと思うのが普通なのだが、彼女は破綻しそうになったところでそれをさらに無軌道な行動でカバーしてしまうのだ。
いったいこれは何なのか… 宗教というものの冷笑的な比喩なのか、それとも消費社会に対する皮肉なのか。どちらも、そういわれればそうという感じもする。特に神父はこの作品の中でかなり重要な役割をしており、最初はロザリーを諭すまっとうな人物として登場したのが、徐々にロザリーのペースに巻き込まれ、どうもおかしな感じになっていってしまうのだ。このことによって、宗教のシステムはこのロザリーのような人物にはまったくどうすることもできず、現世の事柄には関与できないということを露呈しているのかもしれない。
とは考えてみたものの、これも誇示付けというか、この物語に何らかの意味を付与しようとする無駄な試みのひとつに過ぎない。このような意味づけを試みてみても、何かむなしく感じるのは、この映画が結局は全く意味がないからだ。そしてそれこそが、この作者が語ろうとしていることなのではないかと思う。ロザリーがやっていることが犯罪であろうとなかろうと意味はない。それが現世的な意味で罪になろうと、宗教的な意味で罪になろうと、それが何だというのか。彼女はこのような生き方で行き、それが現実にうまく行ってしまうこともある。彼女の行動が罪となるかどうかというのはあくまでも相対的な解釈によるものでしかないし、行ってしまえば世の中のすべてのことというのは相対的な解釈によってしか意味づけることはできない。
この映画はそんな映画のように私には思える。
そして、そんな映画なのだとしたら、この映画をこの映画を見る私という位置から相対的に意味づけてみても意味はないということになるわけで、この映画の意味を考えてみても無駄だということだ。
つまり、この映画が象徴的にあらわしているのはシニシズムとかアナーキズムということなのだと思うが、そのような意味づけすら拒否するこの映画にそのようなレッテルを貼ることもまた無駄なことである。
映画というのは面白ければいいわけで、常にそこに意味が必要だとは思わないが、映画というのが物語である以上、観客はそこに意味を求めてしまう。それがないとなるならば、それがないということによって意味を見つけることとは別の面白さが浮かび上がってこなければ映画としては苦しい。そしてこの映画にはそれがない。この映画のコンセプトはわからなくもないが、いかんせん映画として退屈なので、そのコンセプトに共感することもできないし、最後まで見続けるだけで一苦労という感じになってしまう。
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