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キューポラのある街

2005/11/3
1962年,日本,100分

 
            
     
 
 キューポラと呼ばれる煙突が立ち並ぶ鋳物の町・川口、そこに住むジュンの父は熟練工だが、工場が買収されたことでクビになり、徐々に自暴自棄に陥っていく。ジュンはそんな父を見ながら、自分の力で高校へ行こうとパチンコ屋でアルバイトを始めるが、弟のタカユキがチンピラに屑鉄盗みに引っ張られていったりと苦難ばかりが降りかかる…
 吉永小百合を主演に、高度経済成長に差し掛かる日本の姿を描いた青春映画の名作。時代を色濃く反映する様々なトピックが盛り込まれ、見ごたえは充分。
監督 浦山桐郎
原作 早船ちよ
脚本 今村昌平
    浦山桐郎
撮影 姫田真佐久
音楽 黛敏郎

出演 吉永小百合
    東野英治郎
    杉山徳子
    市川好郎
    浜田光夫
    加藤武

 

 

 


キューポラのある街

キューポラのある街

 

 

 

 いまは都心に近い住宅街である川口が、最近まで鋳物の町だったというのはある程度有名な話のようだ。この映画にあるように高度経済成長期に零細の町工場は大きな工場に取って代わられ、今ではそんな工場もすっかりなくなってしまったわけだが、町は今でも鋳物を待ちのトレードマークとして、街中に鋳物のオブジェなども置かれているらしい。
 そのように、この映画で描かれた町はすでに過去となってしまった。まだ舗装もされていない細い道に沿って、バラックのような小さな家々が並ぶ町並み、工場で働く職人とはつまり貧乏人を意味していたに違いない。そのような貧乏な境遇にある少女が、新しく生まれ変わろうとする日本においてどのように人生を開くか、というなんともストレートに青春で、ストレートに希望に満ちた物語なのである。
 物語はストレートであるが、登場人物たちは魅力的だ。まず職人気質の父親は工場をクビになり、ろくに退職金ももらえないが、義理を通して組合に泣きついたりするようなことはしない。そして仲間には威勢良く切符を切って男気を見せるわけだが、その苛立ちは家族への八つ当たりとなって現れる。このあたりはなんともステレオタイプ化されたホームドラマの頑固親父という感じだが、このステレオタイプ化された「父」は古い日本、古い社会、古い労働者を象徴するものとして登場するのだからこれでいいのだろう。
 その父親は、時代の変化についていけず、オートメーション化された工場で若者にこき使われるのを拒否するという、これまたわかりやすい展開になる。この父親の仕事をめぐるプロットの部分はさもあり何という感じだが、その結末が組合によって元の仕事に戻れるという結論になるところに時代を感じる。 つまり、この父親はもともとは組合=アカというレッテルを貼って、組合を信用していなかった。これはもちろん戦前から戦中に掛けての教育や思想統制によって築かれたものであり、いくら戦後に新憲法が制定されようと、そう簡単に頭の中を帰ることが出来ないわけではない。そして現実の社会にもそのような人々が数多くいて、彼らは新しい時代になじめず孤立し、苦境に立たされていたはずだ。
 この映画はそのような人々に向けて、投げかけられたある種の組合賛歌でもある。62年といえば、まだまだ学生運動、労働運動が盛んな時代、労働者の団結が叫ばれ、組合運動の浸透が図られていた。この映画がそのような運動に与していたかどうかはわからないが、この父親のパートを見ると、ある程度はそんな労働運動に共感的であったと考えるのが自然であるように思える。
 それは、いま見るとどこか胡散臭く見えるが、それが良くも悪くもこの時代を象徴しているのである。この映画はこの労働運動に限らず、今見ると時代というものを感じさせるモチーフが数多く登場し、強くノスタルジーをかきたてる映画になっている。
 たとえば、まずは映画の題名になっているキューポラがそうだし、町並み、子供、テレビに映る相撲(おそらく大鵬)、牛乳配達、などなどだ。べつにノスタルジーを分析することが目的ではないが、このように見てみると、ノスタルジーというのは“貧しさ”と結びついていることが多いのではないだろうか。今はものも豊かにあり、なんでも便利な時代、そんな時代にノスタルジーを感じるのは、不便だが人と人との距離が近く、暖かかった時代である。この映画に集約された狭苦しさや貧しさはまさにそのようなノスタルジーをかきたてる格好の対象にあふれているのだと思う。

 しかし、それでこの映画がもう「古い」映画だということを意味するのではない。時代とは常に変化するものであり、それは過去も現在も未来も変わらない。この映画が捉えるのはそのように「時代が変化する」ということ自体である。そのために若者を主人公にし、古い人間の代表たる父親と対立させているのだ。
 そして、その若者の代表であるジュンが新しい時代に向き合うということは同時に、家庭という閉じられた世界から開かれた社会へと出て行くということを意味する。つまり若者が社会に出て行くことによって、社会は変化し、時代が変化していく。若者とは古い社会に穴を穿つべく意気揚々と社会に出て行く、そのようなものとして描かれているのだ。
 自立とは、そのようにして古い社会と対決することであり、それはつまり親とも対決することである。そのように古い世代が乗り越えられることなくして新しい時代は生れない。そのようなある種、楽観的な考え方がこの映画を支配しているように思える。
 そして、その時代の変化を象徴するものとして使われるのが「自己中心主義」という言葉である。ジュンとタカユキは父親を「自己中心主義」という言葉で非難する。これはつまりエゴイストということなわけだが、戦前では当たり前だったであろう父親の行動が「自己中心主義」という名の下に糾弾され(今ならドメスティック・バイオレンスといわれて刑務所行きかもしれない)、子供たちは「助け合い」や「団結」に自分たちの将来の希望を見出すのだ。自己中心主義から集団主義へ、この映画が言うところの時代の変化とはそのようなものであるようだ。