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こういう映画を観ると、まず「わからない」という思いが頭をよぎる。映像は画面の奥行きを非常にうまく使っていて美しく、それによって映画としては成立してしまっているかのように見えるわけだが、やはり映画とは物語であり、その物語がわからなければ、どうもおもしろいということは出来ないような気がするのだ。
そのような傾向はいわゆるアート系の映画というか、エンターテイメントとして作られたのではない映画に顕著な傾向である。そしてこの映画もその例に漏れず“松竹ヌーヴェル・ヴァーグ”の担い手・吉田喜重らしいアートな映画なのである。吉田喜重の映画にはこういった「わからない」映画が結構あるのだ。
しかし、その「わからなさ」が映画を観終わってみて納得がいけば、それはそれでいい。「わからなさ」が解消し、すべてに意味が与えられれば、それはすばらしい映画であるということだ。
そのような「わからなさ」の一番の例は伊藤野枝と大杉栄のエピソードが演じられている場面が現代であるという点である。物語の舞台は大正、衣装も小物も、住む家の調度もその時代に合わせられている。しかし、岡田茉莉子演じる伊藤野枝は新幹線で上京する。そして、伊藤野枝が身を寄せる辻潤の家のすぐそばには電車が走っているのである。その後も彼らは現代の風景の中で大正時代のドラマを演じ続けるのだ。
簡単に言ってしまえばこれは時代と空間の交錯を描いたということであり、その要として束帯永子が新宿西口で伊藤野枝に出会うというシーンが中盤に挿入されている。
回りくどく映像によって表現された時代と空間の交錯の意味を言葉で説明してしまうと、それが語らんとしていることのほとんどすべてが失われてしまいはするけれど、それでも書くならば、これはつまり時代を超えたテーマ的な共通性を描いているということになる。大杉栄と伊藤野枝とは現代にも存在しているというわけだ。そしてその彼らが象徴しているものとは、「革命の失敗」と「ウーマン・リブ」あるいは「自由恋愛」ではなかろうか。
そのような時代の共通点を基盤としつつ、映画の中心に来るのは恋愛である。ウーマン・リブや革命には「自由恋愛」という思想が常に伴う。それは結婚という制度が女性を過程に縛るものであり、一夫一婦制という制度が保守性を象徴する制度であるからだ。したがってこの2つの時代にもそのような風潮が生まれ、革命者たちはそれに載っていく。
しかし、大正時代にはそのような思想はもちろん世間に受け入れられることはなく、大杉栄は世間からたたかれることになる。1970年には、眉を顰めるられることはすれ、あからさまにたたかれることはない。そのような違いは存在する。 そして、それで結局何が描かれたのか。大正時代のパートはひとつの恋愛ドラマとして見ごたえがある。「自由恋愛」という発想をめぐり、しかしそのような頭でっかちな理屈では片付けることの出来ない感情のもつれがどんどんと物語を面白くしていく。
それに対して、現在のパートのほうはやはり「わからない」という思いから離れることは出来ない。彼らはいったい何者なのか。大正時代の物語が束帯永子の想像と和田究が読んでいる本から組み立てられているということはわかるが、彼らはその物語を展開させていく狂言回しに過ぎないのだろうか。
果たして彼らは奇矯な行動をいろいろととるが、実のところ何もせず、何も言っていないに等しいのだ。
ここでもうひとつ別のテーマが浮かび上がってくるのかもしれない。それはつまり彼らは「何もやることがない」ということだ。それはつまり究極的に人生は無目的だということだ。束帯永子が出会った刑事は文字通りそのようなことを言うが、それに限らずこの映画では死が甘美なもの、一種の快楽として描かれる。それは生が苦しいからではなく、生が「無」であるからだ。生に意味を与えるものとして「死」しか見出すことが出来ないのだ。
映画の序盤で大杉栄が盛んに「自我」ということについて語っているが、自我を突き詰めていけばそこに「無」が存在するのは当然のことなのかもしれないと思う。「自我」とはつまり、「私」が積み上げた構築物である。したがって、それを突き詰めていけば「私」にたどり着いてしまい、「自我」なるものは消失してしまうのだ。そしてその「私」なるものがそもそも何なのかもわからない。
人間とはそもそもそのようにして存在の無意味さにぶつかるものなのではないかと思う。したがって、この映画はひとつの普遍的な問題を投げかけるものでもあるということだ。しかしもちろん、その問題の解決の助けとなるような光を投げかけることは決してなく(そんなことは不可能だ)終わっていく。
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