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ふたりが出会う薬や、ふたりは最初からそこで出会うことになっていたかのように自然に肩を並べて歩き出す。しかし、ふたりは初対面で、まったく知らないもの同士、しかし自然にマネスキエの家に行き、たいした会話もしないまま二人は別れる。ここまで来ても物語はまったく進展していない。
しかし、ふたりはどこかですでに通じ合っているという感じも画面からは漂ってくる。ふたりともが何か普通でない感じをたたえ、どこか落ち着かない。その落ち着かなさを埋め合わせてくれるものを相手に求めているようなのだ。だから、ミランがマネスキエの家に泊まるようになってからも、ふたりは特別に何かコミュニケーションが取れているようには見えないにもかかわらず、ふたりでいることが居心地よさそうなのだ。
そして、その落ち着かなさというのが、実はそれぞれ土曜日に控えている出来事、ミランは銀行強盗、マネスキエは手術のせいであることがすぐに明らかになる。これまでまったく違う人生を送ってきたふたり、そのふたりが落ち着かなさと土曜日と孤独いう共通項だけによってつながりあう。この映画は孤独と人生というものについて考え直すふたりの男を描いたものなのだ。
ふたりは人生について考え直す中で、目の前にいる男に自分が持っていた別の可能性を見出す。自分とは正反対の人生、それは「隣の芝生は青い」的な憧れなのかもしれないが、それを実際に手にしてみることで、何か別のものが見えてくる。この映画はその家庭をみごとに、しかし実に地味に描く。それを媒介するのは物である。革ジャン、部屋履き、拳銃、パイプ、時にはひそかに、そして時には正面を切って相手の世界を象徴するものを求める。これはもちろん象徴的な人生の交換である。死の可能性をもはらむ決定的な人生の瞬間を前にして、別の人生の可能性を目にして、落ち着かない日々を送る。ただそれだけの物語をルコントはみごとに魅力的に描き出すのだ。
パトリス・ルコントの作品といえば、寂しさを伴いながらもどこか甘美な感じを持っているという印象が強い。この作品はその寂しさの部分を追求した作品という感じだ。『髪結いの亭主』などの官能的なフランス人らしい愛を描いた作品もいいが、こんな作品も味があっていい。ルコントもこのような物語を描きながら、人生を振り返る年齢に差し掛かってきたということなのだろうか。
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