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脚本家が描く劇作家の物語、いわゆる楽屋落ちというやつだが、すでに私たちはそのような映画界とかショービズ界の楽屋ネタにすっかりなじんでしまっているがゆえにあまり違和感なく入っていけることが出来るし、劇作家の書けない苦悩というのもなんとなくわかる気がする。だから、物語は親しみやすく、温かみもあって、共感を持って追うことが出来る。ピーターの言っていることは理屈っぽくて冷笑的だから、彼の視線から物事を眺めるというのは難しいけれど、彼を暖かく見つめる傍観者の一人としてなら、この物語の世界に浸ることは難しいことではない。
この映画はそんなふうに温かみがあっていいのだが、同時にあまりに平坦で起伏に欠ける。エンターテイメント映画に慣らされてしまった観客の悪い癖なのか、どこかであっと驚くことがおきるのではないかという予感をどこかで持って映画を見てしまうのだが、この映画にはそんなアット驚くという点がまったくない。偏屈な劇作家と無垢な少女との出会いと、ふたりの関係の変化が映画の主プロットであり、見せ場であるはずなのに、そこがあまりに淡々と進んで行ってしまうのだ。
それでは、このなんとなく見せてしまう映画にはいったい何があるのか。何かがあるといえば、観客を考えさせるような要素がないことはない。その要素とは“エゴイズム”である。この物語を牽引しているのはそれぞれの登場人物のエゴだ。ピーターのエゴはもちろんだが、もう一人目立ったエゴを持つ存在としてエミリーの母親トリーナがおり、そしてエミリーもかなり強いエゴを持っている。ピーターはエゴイズムの塊である。妻との関係も仕事仲間との関係も自分のエゴを中心に組み立てられているとしか思えない。
そんなピーターが、自分の作品に子供の感覚を取り入れたいというエゴをもってエミリーと会話しに行く。しかしピーターのエゴはそこでエミリーのエゴに出会って、自分のエゴを引っ込めざるを得なくなる。そこで彼は少し変わる。そしてその変化によって周囲との関係も変化して行く。一見余計なエピソードにも見えるモーニングショーでのインタビューも、エゴとエゴとのぶつかり合いの場として、エゴを介した彼と周囲の関係の象徴として作品にとりこまれている。
ピーターはいつも我慢し切れなくて、エゴイズムを表出させてしまって失敗する。彼がその自分のエゴといかに折り合いをつけて行くのか、それがこの映画を見ながら何かを考える際に重要なポイントとなう要素である。彼のエゴを中心に見ていけば、映画全体がすっきりと見えてくる。そして、それは様々なエゴのありようを表現しているし、観客それぞれが自分のエゴとどのように折り合って行くのかということを考えるヒントにもなりうる。
この作品はコメディといえばコメディだが、コメディ的要素よりはヒューマン・ドラマ的な要素の方がはるかに強い。クスリと笑えるところはところどころあるけれど、基本的に暖かく緩やかなこの作品は笑いも緩やかでおとなしい。だから、時間と気持ちに余裕がないと、じっくり味わえない感じの作品かもしれないとも思う。
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