|
この映画の構成は非常に巧妙だ。物語は2人のほとんど会話したこともない2人の男が旅は道連れとばかりに妙な旅館に泊まるところから始まる。この段階では、2人はその共通の友人である船木と携帯で連絡を取ったり、自分自身の日常である映画についての会話を交わしたりしながら、ぎこちなさを沈黙で埋めて、何とか過ごしているわけで、そこにあるのは日常の延長であり、ただ場所を変えただけの日常の連続である。
しかし、その日常が変な外国人の登場でいきなり破られる。妙な日本語で話しかけ、魚を売りつけようとする外国人、彼の存在によって彼の泊まる宿は一気に非日常の空間と化し、2人はするりと旅という非日常の世界にもぐりこんでしまう。それをもっともうまくやっているのはウィスキーのエピソードだ。隠したつもりのウィスキーのボトルが空になるというちょっとした超常現象、そしてそのオチ(ネタばれ防止)、このような出来事によって2人は日常から引き剥がされるのだ。
そして、“あっちゃん”の登場もこのたびをますます非日常的なものへと変えて行く。日常から非日常へ、さらには幻想的な世界へと2人は進んで行くわけだ。このあたりのふわりとした雰囲気はすごく好きだ。完全に他人だった2人ないし3人の人間の間に自然と人間関係が出来上がり、それぞれがそれぞれの考えを推し量り、よそよそしくありながら親しげな微妙な距離を保つ。このあたりの人間の心理の描き方は秀逸だ。
そして、この非日常の旅はどんどん続いて行く、これまた謎の人物“ポンちゃん”と金髪の青年が登場し、二人は非日常どころか非現実の世界へと引き込まれて行ってしまうようだ。
しかし、ここまで旅が本来の非日常性を獲得したところで、いきなりそこに日常が楔のように入り込んでくる。非日常であるはずの旅の途上に突然現れる日常は旅人を混乱させ、多くの場合は笑わせる。この2人もまさにその通り、突然ぶち当たったあまりに日常的な光景に2人は笑うしかないのだ。
この日常と非日常の揺り返し、この明確な形では表に出てこないエッセンスがこの映画の性質を決定付け、非常に興味深い作品になっている。この作品は旅というものが本来的に非日常を体験するものであり、それは映画も同じであるということ。つまり旅をすることと映画を見ることは同じであり、映画の作り手が旅をするということは自ら映画を経験することと同じなのである。
この作品も一種のロードムービーなわけだが、映画と旅とがそのように隣接するものであるだけにロードムービーというジャンルが容易に成立するのだ。旅であれ映画であれ、素晴らしい非日常を経験して日常に戻るということ、その意味をこの作品は問うている。人はどうして映画を観たり旅をすることでわざわざ非日常を経験しようとするのか。この作品を観ると、その理由がおぼろげながらわかるような気がする。
|