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豊田四郎という監督は映像の監督というよりは物語の監督であると思う。映像によって観客に何かをうったえるというよりは、そのプロットとセリフによって観客に語りかけるのだ。だから、文芸映画を数多く撮り、その原作の文芸作品の語りを映画としてスクリーンに刻み込んできた。この作品もそのような文芸作品のひとつであり、芥川龍之介の言葉によって映画が成立するということになりそうなのだが、この作品の場合主人公が絵師であり、映像がものをいうという場面が数多いために、映像の部分の弱さが逆に目立ってしまったのではないか。
原作は小説だから、どうあっても映像によってその絵を示すことは出来なかった。良秀が描く一つ一つの絵、そして最後に描くことになる地獄絵図、そのどれも実際の絵を示すのではなく、その絵を言葉で説明していたわけだ。しかし、それを映画にするとなると、その絵を実際に映像として提示せざるを得なくなる。これは豊田四郎の作品に限ったことではないが、映画に登場する芸術作品というのはどうしても本物を使うことは出来ず、本当の芸術作品と比べると迫力に欠けてしまうのはいたし方がない。それはこの作品にももちろん当てはまり、クライマックスとなるはずの絵がどうしても迫力に欠けるのだ。
もちろん、映像によって見せることのうまい監督ならば、見せ方の工夫によってもう少しは迫力を付け加えることが出来たのだろうが、それでもやはり、絵だけによって観客を圧倒するということは難しかっただろう。
それはこの芥川龍之介の『地獄変』という小説の映像化の難しさを意味している。良秀がそこまでして打ち込む絵、自分の命を懸けてでも描こうとする絵がいったいどのようなものなのかということを想像し、読者は想像しうるいちばんおぞましい絵を思い浮かべることによってこの小説は成立している。だから、映画化するにしても、肝心の絵は見せるべきではないのかもしれないと思うのだが、しかしそんな映画を見せられることを考えると、どうにもすっきりしない映画になりそうにも思える。
だから、豊田四郎だから、というわけでもないのかもしれないが、それでもやはり映像になんありという部分は否定できない。
そして、そのために映画全体がなんとなく的を得ないような感じになってしまった感がある。仲代達矢の演技には迫力があり、力強さがあるが、結局彼がなにに苦悩しているのか、単純に世の不公平に憤っているだけなのか、帰化人ということに対する差別が納得できないのか、そのあたりがはっきりしない。
それでも、話の終わり方は「なるほど」という感じもするし、背中がぞわっとするような恐ろしさがあって非常にいいと思う。
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