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この映画が描く華族の没落というものは「斜陽」の例を出すまでもなく、当時の話題になっていた事柄だったのだろう。特権で守られてきた華族たちがその特権を奪われ、一般の人々と同じ市民となる、それはまさに“平等”という新憲法が抱える理念を象徴的に示す出来事だったのだ。
そしてそれは同時に価値観の変化、世界観の変化をも伴う。そのような変化が浮き上がらせるのは時代の変化であり、世代間のギャップである。同じ華族でも若い世代はその変化についていけるが、上の世代はついていけない。この映画が描いているのはそんな当たり前のことなのだ。
そんな当たり前のことはわかってるといいたくもなるのだが、しかし、それが当たり前のことだというのは時代の変化についていけない上の世代の人々にもわかっていることなのだ。頭ではわかっているのだが、しかしそれに対応していくことが出来ない。そのことを安城家の父・忠彦は自室から庭を眺めながら「頭ではわかっているんだよ」とポツリともらすことですんなりと表現してしまう。
それはどんなに言葉で説明されるよりもストンと腑に落ちる表現だ。なぜ彼らは没落せねばならなかったのか、新しい世界で新たな地位をつかむことに失敗してしまうのか。具体的な理由以前にそのような心情がその根底にあったのだということをすんなりと理解できるのだ。
そのシーンに限らず、この映画を観ていると「腑に落ちる」ということがすごく多い。この映画はすごくよく“わかる”のである。それはつまりこの映画がすごく“映画的”だということでもある。非常に映画的に物事を表現し、見ている側も映画的にそれを理解する。
それはいわば映画という言語がものすごくきっちりと使われているというような感じである。あるいは、映画の教科書のようなと言ってもいいかもしれない。構図、人物設定、音楽の使い方、カメラワーク、間の取り方、そのどれをとっても「こうすれば、こうなる」ということが手に取るようにわかるのだ。しかもそれが後半に行くにつれて少々ひねられていくことでより効果的になっていくのだ。
いくつか例を挙げていこう。
一番わかりやすいのは人物設定だろうか。この映画は案外と登場人物が多い。まず安城家は父親(忠彦)と3人の子供(正彦、昭子、敦子)、それに弟/叔父(武彦)がいる。それから、元運転手で今は実業家の遠山、父親の知己の新川とその娘で正彦の婚約者の曜子、さらに女中で正彦と関係を持つお菊あたりが重要人物。でさらに、使用人頭のような吉田がいて、物語の終盤には忠彦の妾の千代なんてのも登場する。そして彼らは恋、愛、金、忠義、といったものによって関係付けられ、しかもそれはこの映画の物語の間で様々に変化していく。そして、かなり登場人物が多いにもかかわらず、観客は決して混乱することなく関係の変化と物語の展開を追うことが出来るのだ。それは彼らの人物設定がしっかりとしているからだ。それぞれがそれぞれのキャラクターを持っていて、それが混同されることはない。むしろ物語が進むにつれてそれぞれの差異が際立ってくるのだ。
しかし、それはわかり安い一方で、ステレオタイプに陥りやすいという弱点もある。事実、忠彦と千代の結婚という形で実現した身分の違いを超えた恋愛の成就(あるいは、身分の違いが消滅したことを象徴的に示す結婚という儀式)は、昭子−遠山というカップル、そして正彦−お菊というカップルによって繰り返される。
音楽は序盤からさりげなく使われ、音楽が意識されることはほとんどない。しかし、正彦はピアノを弾き、舞踏会には楽団が登場する。そして、遠山が屋敷を買って、そして去ろうというとき、自分の退場のための曲を弾いてくれ要求することで、音楽がぐっと前面に押し出される。彼は「悲しい曲にしてくれ」と言って、音楽が登場人物の心理を反映することを明確に示すのだ。そして、最終盤の父と娘が踊るシーンでの蓄音機の使い方、このあたりでも音楽が意識的に使われていることがよくわかる。
カメラワークを最も意識したのは、終盤のクライマックスの場面、自殺を図ろうかという父親が階段の上を見つめるのを、カメラは横から捉え、そこからぐっと後ろに回って、その視線の先にあるもの(肖像画)を映し出す。そして横からのロングショット(原節子=敦子の視線)に移って、ピストルを取り出すところを捉える。そこに駆け寄る原節子を捉えるのは超ローアングルのショットで、原節子はカメラに向かって走ってくる形になる。このローアングルのショットにはすごく迫力がある。このショットを見ながら「迫力を出すにはこうすればいいんだ」と妙に納得してしまうのだ。
それはもちろん意識されなくてもいい。むしろ意識されないほうが映画の効果としてはいいに違いない。それが意識されてしまうというところがこの映画を「教科書のよう」と思ってしまう理由だろう。が、意識されてしまうことは失敗というわけではない。
この映画の狙いは、すべてをスタンダードに、しかし洗練した形で使ることだろう。それはこの映画が作られた時代背景に関連してくるのだと思う。戦争が終わってまだ2年、物資も人材もまだ乏しかったこの時代、大衆が娯楽を求めていた時代、再び映画が大衆文化の花形となるためには、新たな出発点であるこの時代にこのようなしっかりした映画を作っておく必要がある。そのように吉村公三郎はそのように考えたのではなかろうか。そのためにはスターを起用して人を集めるだけの映画ではなく、本当に映画の面白さというものを表現できるような映画が必要だったのではないか。
滝沢修や森雅之という舞台を中心に活躍する民芸の役者たちの起用からも、そのような意図が感じられる。新劇調の大げささが時折感じられはするが、彼らの演技は実に見事だ。
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