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今から見れば、ナチスの支配下にあったパリの人々の行動を評価することは簡単だ。ナチスは悪、ユダヤは被害者、レジスタンスは正義の味方だから。しかし、未来がどうなるかわからない当時のパリに住む人々にはそれは難しい選択だったのではないか。たしかにユダヤ人が迫害され、追放されるのを見ているのはつらい。特にそれまでユダヤ人である人々と何の疑問もなく友達付き合いしていた人などはナチスに強く反発するだろう。しかし、そうではない人たちは自分とははっきり言って関係ないユダヤ人のために自分の命を危険にさらすことには二の足を踏むに違いないのだ。
そのような意味でこの映画の主人公バティニョールおじさんは当時のパリの人々の典型的な態度を表しているのではないかと思う。ユダヤ人は気の毒に思うけれど、積極的に彼らを救おうとは思わない。しかし、対独協力者には反発心を持つ。そして同時に、バティニョールおじさんの家族たち(妻と娘)のような態度をとる人も多かっただろうと想像できる。ナチスの片棒を担がないまでも、対独協力者のような顔をして甘い汁を吸おうとする。ジャン=ピエールのようにナチスの時代がこれからも続くと考えていたかどうかはわからないが、戦争の中で今日をいかに快適に生きるかということを考えると、ナチスににらまれないほうがいいに違いないのだから。
もちろん、今の時代から彼らを非難することは簡単だ。間接的にユダヤ人たちの虐殺に手を貸したわけだから。しかし、ユダヤ人たちの運命がそれほど悲惨なものだとは彼らにはわかっていなかっただろうし、全ての人に自分の命をなげうつような正義感を求めるのは酷というものだ。自分の命をなげうって国を救うという大義名分を掲げるレジスタンスだってこの映画に出てくるように決して立派なものばかりではなかったのだから。
圧倒的な力を持ちナチスの支配下で疑問を持ちながらもおびえながら生きていた人々。ナチスに対抗する人々の映画に組織的な戦いを描いたものではなく、この作品のように個人のささやかな行動を描いたものが多くなるのは、そのようなナチスの力の強さを表してもいる。その中でこれだけの行動をするバティニョールおじさんは実に格好よく見える。
オヤジが格好よく見えてしまうという意味でも、この作品は『ピエロの赤い鼻』にとてもよく似ている。人間の複雑さを描くという点では『ピエロの赤い鼻』の方が優れた作品で、それと比べるとこの作品は見劣りするのだが、まあこんなのもありかな。
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