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なんといってもいいのは主役の千太を演じる伊藤敏孝である。「なんかもしろそ〜」という言葉とともに駆け出して、普通に考えれば面倒くさいことにどんどん頭を突っ込んで行く、その若者らしい勢いを見事に演じきっている。
そしてそれは対照的な存在としている万次郎と並置されることによってよりわかりやすく浮き彫りになって行く。このふたりの青年はまったく対照的であるように見える。千太の方はとにかく自分の思ったとおりに突き進み、いいものはいい、悪いものは悪いと決め付ける。もちろんどこか抜けたところがあるためにそのように一本気な性格になっているのだが、それが極端になり破天荒になることで、そこに何か仁義とか正義というものが存在しているかのように見えるようになるのだ。それに対して万次郎はとにかく自分の利益だけを考える。周囲で起こっていることとは関係なく、どうしたら自分がより多く利益を上げることが出来るか、ただそれだけを考えているわけだ。
そのように対照的なふたりだが、共通する部分もある。それはまずどちらも自分の欲望のみに突き動かされているということだ。世の中の動きとか、人と人との関係のしがらみとかいったことには目もくれず、ただ自分の欲望が赴くままに行動する。それが彼らを子供じみたように見せ、しかし同時に限りないパワーを生んでもいる。そしてもうひとつ、彼らは今起こっている戦乱に何の希望も見出していないという点も共通している。万次郎は言葉としてもその無意味さを表明しているから明らかだが、千太の方は一貫して仙台藩の側についており、官軍に反対しているかに見える。しかし、彼が官軍に反対するのはそれが彼の感情を害するからだ。少年たちを殺し、仲間を殺すひどい奴らだからなのである。
彼らはまるで戦乱など目に入っていないかのようだ。それは岡本喜八が一貫して描き続ける戦争の無意味さに通じる。彼らはその戦争の無意味さというものをすでに突き抜け、それを無に帰してしまっているのだ。
そんな彼らを動かす最大のものは性のエネルギーである。性衝動に突き動かされて彼らは無鉄砲な行動をする。
この作品の前まで岡本喜八はそのような戦争の無意味さを超える、あるいは突き抜けるものとして“愛”を念頭に置いていたのではないかと思う。『斬る』の組長も『赤毛』の権三も“愛”のために死ぬ。そして、それはこの作品の十太夫にまでつながっている。
しかし、千太と万次郎が抱えているのは愛ではなくあくまでも性衝動なのだ。それは下卑た猥雑なものではあるが、人間にとってもっとも本来的なもののひとつであり、大きなエネルギーの源となるものであることも確かだ。それはどう考えても“愛”というような奇麗事よりも大きなエネルギーを持ち、戦争や殺し合いの無意味さを突き抜けるにふさわしいものであるように見える。
この映画に一貫して下ネタというべき下品なギャグがちりばめられているのは、その下品さにこそ庶民のエネルギーの源があるのであり、それは決して卑下すべきものではないといいたいがためなのではないかと思う。人々はそのようなエネルギーを下品で野蛮なものとして抑圧してきたがために、自分とは無関係な権力者たちの戦いに巻き込まれても、それに抗うことが出来なかったのである。その性のエネルギーを解き放てば、そんな権力者にも立ち向かうことが出来る。そんな妄想じみた考えが岡本喜八にはあるのではないかとこの作品を観ながら思った。
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