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この机竜之助という男、私にはさっぱりわけがわからない。いったい何を考えているのか。もっとも印象に残ったのはその目だが、焦点が定まっていないようなうつけた目、その奥底には狂気の根があるようで、見るものを落ち着かなくする。
彼がそのようにうつけた目をするのは、彼の父親が恐れたように彼自身が“音無しの構え”に魅入られてしまったからなのではないかと思う。音無しの構えとは、「押せば引く、引けば下がる」という受身の剣、自ら隙を作って、相手がその隙を狙ってきたところを返り討ちにするという受身の剣である。
その剣に魅入られた机竜之助は、全てに受身になる。彼は次々と人を殺すが、その発端となった宇津木文之丞との試合での面へのひと振りもあくまでもついて出てきた文之丞の剣をかわしての返り討ちであった。その後も彼はただただ受身で人を殺し続け、それで金をもらう。彼はどんどんその受身の罠に入り込んでゆき、うつけた目になり、狂って行く。その過程を描いたのがこの作品なのだ。
しかし、そのいちばん最初は竜之助が通りすがりの何の因果もない老人を後ろからばっさりと斬るエピソードである。このとき竜之助は決して受身ではない、自らその老人を殺すことを選び、迷うことなくばっさり斬った。これはもちろん彼の底なしの悪意を、彼の非常さをショッキングな形で観客に示すシーンとして機能するわけだが、同時にこれは彼の中の積極性がふと頭を出した瞬間でもあるのかもしれない。
そしてその積極性は御簾の間の亡霊によって蘇る。この亡霊の出現によって竜之助の心の何かが自分自身に向けて照らし出される。竜之助はそれを打ち払うために亡霊を切ろうとして完全に狂ってしまう。果たしてここで竜之助が知ることで狂ってしまった自分自身とはいったいどのようなものだったのだろうか。彼はいったい何を恥じていたのか。良心などとうに失ってしまっただろう彼が狂うまでに見せられたくないものとはいったい何なのか。
私が思うに、彼は大菩薩峠で老人を切り捨てた時点で狂ってしまったのではないか。音無しの構えとはそもそも相手がかかってくるまで待つ剣、裏返せば相手がかかってこない限りは相手を斬ることはない剣である。その彼が意味もなく人を斬ってしまった。この因果が彼を駆り立て、竜之助は人を斬り続けなければならない運命に落ち込んでしまった。
亡霊とはそのように彼を駆り立てるものそのものなのではないか。そしてそれは同時に彼自身である。机竜之助は自分自身を殺すために人の姿を借りて現れる亡霊を斬り続けるのだ。
もちろん、原作は世界最長といわれる長大な大河小説、こんな2時間の映画を見ただけで机竜之助という人間のことがわかるわけはない。しかし、少なくとも、岡本喜八なりの竜之助の解釈というのはこのようなものなのではないかと思う。この映画の机竜之助の目から感じられる狂気から映画全体を見てみると、そのような物語がそこにあるように思えてくるのだ。
それは岡本喜八が一貫して描く戦いの、そして殺し合いの虚しさというテーマに通じるものでもあり、人を殺すと言うことと狂気との親密さにも通じるものである。
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