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この映画を見ながら、やはりクリント・イーストウッドはいい意味でも悪い意味でも「売れる映画」を撮ると思った。映画監督たるものやはり売れる映画を撮らなければならないし、売れるということはつまり面白いということなのだけれど、果たしてそれだけでいいのか。
まず、この作品は犯人探しのサスペンスとしての面白みがある。ジミーとショーンとデイブという今は疎遠の幼馴染の3人を絡めながら、そのジミーの娘を殺した犯人は誰なのかという謎解きを展開して行く。その謎解きが主プロットとなっているため、観客はその物語にどんどん引き込まれ、映画の登場人物に自己同一化して行くことになる。この仕掛けにうまく乗れば映画に入り込んで、映画を面白く見られることが出来るのだ。
そして、さらにそこに小児性愛というアメリカ社会で(もちろん日本でも)大きな問題になり、「悪事」以外には定義しようのない要素を加える。デイブをさらったふたりの変態は悪人以外の何者でもなく、そこに同情の余地とか彼らの側の事情とかいうものは存在しない。彼らは完全な加害者であり、デイブは完全な被害者である。
そのようなサスペンスによる観客に対する仕掛けと、この完全なる善悪の二分法がこの映画を支配するので、この映画は非常にわかりやすいのだ。その展開に乗ると、ジミーは完全な被害者で、ケイティを殺した犯人は完全な加害者であるということになる。
その中でデイブだけが複雑さを抱えるものとして存在しているように見えるのだが、イーストウッドが焦点を当てるのはデイブではなくむしろジミーのほうだ。私はそこに彼の悪意を感じずにはいられない。この作品にはデイブを救おうという意思がまったく存在しない。貧乏で生活力のないデイブは彼の過去がどのようなものであるにしろ弱者でしかない。それに対してジミーは過去にどのような犯罪を犯して来たにしろ強者である。この映画はその関係が生む軋みを描き出そうとするのではなく、その関係を所与のものとして保存しようとする。
なぜ、そんなことになってしまうのか。
この映画の結末はまったくわけがわからない。言ってしまえば、独善的なアメリカを象徴するような存在であるジミーを許すのがアメリカだということか。イーストウッドが本当にこんなことを信じているのなら、映画監督なんか辞めて大統領にでもなったほうがいい。
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