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少年と老人が登場し、いわゆる感動ものかと思わせるが、実際はそうでもない。その理由はこの老人が決して老人然としていないというのが大きい。
まず、ユダヤ人の少年とムスリムの老人という組み合わせは宗教的な価値観の衝突を、あるいは宗教を越えた心の交流なるものを予感させるかもしれないが、そもそもイスラム教というのは寛容の宗教、イブラヒムが旅の途中でギリシャ正教の教会やカトリックの教会にモモを連れて行くように、他の宗教(ただしキリスト教徒ユダヤ教に限られる)に対して寛容なのである。だから、イブラヒムにとっては実はモモがイスラム教徒ではなくユダヤ教徒であることは問題にならない。そしてモモにとってもユダヤ教というのはそれほど生活に大きな影を落としているわけではなく、コーランにも素直に手を伸ばす。
だからこの映画は“宗教の垣根を越えた”などという堅苦しいことはひとつもない。イブラヒムは敬虔なムスリムで、コーランに全て書いてあるとは言うが、コーランの言葉に囚われるなとも言う。それが意味するのは、コーランに書いてあるのはイスラム教にひとつの宗教の戒律ではなく、ユダヤ教やキリスト教も含めた様々な宗教に共通する根源的なものの考え方であるということだ。イブラヒムはモモにそのようなものの考え方をつかむことが重要なのだと伝えたかったのであり、それはそのままイスラム教の特長であるはずの寛容の精神につながるはずである。
だからイブラヒムはどのような人でも受け入れる。自分の店で万引きを繰り返したモモはもちろん、冷たいモモの父にも同情の目を向ける。そして、街娼たちにも暖かく、むしろ彼女たちを尊敬しているというか、彼女たちこそその寛容の精神をもった存在であるように見ているかのようだ。
この映画の題名である「コーランの花たち」とはこの街娼たちのことを言っているのではないかと私には思える。それほどにこの街娼たちは温かみがあって優しく、寛容だ。それはおそらくここに描かれている彼女たちがモモの目から見た彼女たちの像だからであろう。彼女たちも娼婦なのだからあくどいこともやっているのだろうが、モモの目からはそのような暖かい人々に見えるのだ。
そのような暖かい人たちに触れてモモは変わって行く、その変わり行きようがこの映画の面白さである。
たしかにもっと劇的な何かがあると思って見るとかなり地味で、フランス映画というよりはイラン映画のような印象だが、イブラヒムおじさんはおかしくもあり、静かにふふふっと楽しめる感じだ。
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