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この映画はもちろんサスペンスである。4万ドルという金(高々500万円)を手に入れるために狂言誘拐をもくろんだ男がボタンの掛け違い(あるいは計画の甘さ)からどんどんどつぼにはまっていくという物語。
その根底にあるのは、このジェリーの無力感である。義父と妻と息子、彼らの間で自分は何も出来ないという無力感、それを晴らすための犯罪計画、無力感が暴力的な行動に結びつくというのは現代に非常によく見られる傾向だ。この映画の主人公のジェリーは決して暴力に魅了されたわけではないが、彼の衝動が破壊的なものに向いていたことは確かだろう。その衝動が呼び寄せたのが予定ではいるはずのなかったもう一人の犯罪者グリムスラッドなのである。まさに暴力を体現したかのような彼の存在がこの映画を面白くしているわけだ。
日常と隣り合わせにある暴力、その距離は日本よりもアメリカのほうがはるかに近い。その日常と隣り合わせの暴力がふとしたことで日常に入り込んできたことから巻き起こされる恐怖、この映画に限らずコーエン兄弟はそのような恐怖をたびたび描いている。その恐怖についてはこれ以上言えることはない。その恐怖を見事に描いてしまったこの作品は、なにかその恐怖が映画を見ているわれわれの日常にヌルリと侵入してくるかのような感覚を感じさせて非常に不気味だ。映画の最後に教訓的な話が語られるのは、そのような観客の気持ち悪さを緩和するためだったのだろうか。たいして緩和はされなかったが、その唐突とも思える場違いなセリフに、この映画と自分自身との距離があまりに近づきすぎていることに気づかされた。
不気味といえば、この作品はその恐怖が日常に入り込んでくる不気味さという全体からもたらされる漠然としたもの以外にも、さまざまな不気味な描写が登場する。たとえば、ファーゴの隣町のブレイナードの入り口にある像。ジョナサン・エドワーズというその町の英雄らしい人物の像だということだが、その像が夜の道でライトに照らされる姿はあまりに不気味だ。その撮り方からして意図的に不気味さが演出されていることは確かだ。もうひとつ例を挙げれば、ジーンが警察署に戻ってくると夫のノームがランチを買ってきて待っているというシーン。ジーンはその前のシーンでノームにミミズを買って行かなきゃと言っていて、それをノームに渡すのだが、そのミミズのクロースアップがノームがハンバーガーをむさぼっているその最中に挿入される。
枚挙に暇がないこの映画の不気味なシーンは、すごく気持ち悪い印象を観客に与える。画面は雪で覆われた真っ白いシーンが多用されているにもかかわらず、この作品の印象はあまりに暗い。
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