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市川雷蔵は決して殺陣がうまいとはいえないと思う。顔も二枚目で優男の感じだから、剣を振るっても今ひとつ迫力が出ないというのが大きな理由だと思うが、そのために全体的な勢いがそがれてしまうのだ。だから、実際のところ映画のはじめに家来がお追従で負けているというシーンはまさにピタリと来る。雷蔵はまさしくぎこちない動きで家来のほうがはるかに迫力がある。
しかし、それがどんどん剣の実力が上がって行くというのだから、物語展開としてはなかなか苦しいのではないかと予想してしまうが、これがどうして、見ているうちに達人のように見えてきてしまうから不思議だ。とくに、源之助が源平として出世し、ついに竹馬の友・敬四郎と合い見える場面、この場面の緊張感は凄い。
このシーンはこの映画の中でもっとも魅力的なシーンだ。物語のプロットの分岐点でもあるし、物語の緊張感がもっとも高まる場面である。そして、互いに相手を認められぬまま剣を交える。もちろん、最終的にはお互いを認め、ことはうまく運んで行くだろうという予想は容易に立つのだが、そこに緊張感を与え、観客を引き込むというのがこの作品のエンターテインメントとしての優れた部分だと思う。
エンターテインメント、スペクタクルという名称を映画に与えると、それはすぐにハリウッド映画を想起させるが、今この作品のような日本映画の黄金期のエンターテインメント時代劇を観ると、それらの作品が今のハリウッド映画に匹敵するほどにスペクタクルであることに気づく。その日本映画の黄金時代といわれる昭和30年代、日本人はすでに時代劇に描かれる時代の日本人とはすっかり様変わりしてしまっていたはずだ。にもかかわらずこれらの時代劇は人々をとりこにし、そこに描かれる人情や仁義、正義や武士道は人々の心を打った。だからこそ、すでに世の中にそのようなものはなくなってしまっても、そのような人情や仁義は依然として日本人らしさの象徴のように感じることが出来たのだ。そして、そのような幻想は今も続いているように思える。
この作品のような日本映画の黄金時代の時代劇は「日本人らしさ」というスペクタクルを生み出し、日本人の心に幻想を植え付けた。その幻想を連綿と受け継ぐ日本人は、だから今それらの映画を見ても面白く感じられるのだと思う。
時代劇というものが連綿と続くのは、そこにひとつの「型」があるからだといわれるが、その型とはつまり、そのような日本人像を実体化させたものだ。この作品は水戸黄門や暴れん坊将軍と同じく、地位の高い者が庶民の間に入って行くという物語であるが、この庶民的な支配者/指導者というのも日本人の抱く幻想のひとつであると思う。
それでもやはり最後まで市川雷蔵の殺陣はそれほどうまくない。最後の大殺陣もたとえば黒澤作品の三船敏郎のような勢いや迫力はない。それも雷蔵の味ではあると思うが、それで時代劇スターになってしまうのだから、やはり雷蔵は凄いんだと思ったりもした。
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