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原作では確か安寿が姉で厨子王が弟だったと思う。それがこの映画では厨子王が兄で安寿が妹となっているのだが、これはおそらく花柳喜章と香川京子というキャストの年齢の問題なのだろう。しかし、これは結果的にはただ姉弟が兄妹に変わっただけという以上の効果を生んでしまった。元の物語では姉が弟を救うために命を捨てるということになるのだが、この映画では兄が妹を見捨てたというように写ってしまうのだ。
これは非常に大きな違いだと思うが、ここには実は溝口らしさが現れているとも考えられる。つまり、溝口の映画がずっと扱い続けるひとつのパターンである、情けない男が女の助けで何とか立ち行くという構造がより強調されてくるのだ。これまでは基本的には年上の女に助けられる男という構図が多かったのだが、ここでは兄が妹に助けられるという構図になっている。厨子王は10年の間にまるで駄目な男になってしまい、妹にたきつけられてようやく行動を起こし、しかも妹の自分が犠牲になるという提案をいとも簡単に受け入れてしまう。この厨子王の情けなさ、それに比べて安寿の気高きこと、この対比がまさに溝口。この逆転はキャスティングに端を発っしたことは確かだ、それが結果的に溝口らしさを強調する結果になったのだ。確かにちょっとやりすぎで説得力がないという感じもしなくはないが、安寿を演じる香川京子が静々と水の中に入って行くシーンは映画史に残る名シーンであると思う。
このシーンもそうだが、この作品の溝口はいわゆる溝口らしいとされる1シーン=1ショットにあまりこだわっていないように見える。この入水自殺のシーンでは、腰の辺りまで静々と歩んで行くシーンが1カットで続き、老婆の横顔のインサートショットがあって、池に波紋が広がるだけのカットがそれに続く。このような効果的なカット割がこの作品では随所に見える。それでももちろん1カットの長さは十分に長いのだが、「ここまでやるか」というこだわりのようなものが感じられるようなシーンはあまりない。
そのせいで、この映画は溝口にしては少し凡庸な印象がある。映像自体は非常に美しいのだが、溝口らしい緊張感には少々欠け、どこか安心して見れてしまうのだ。
しかし、田中絹代の登場シーンはまた別だ。遊女として売られ、奴隷のような日々を過ごし、果ては逃亡しないように足の腱まで切られながらもずっと子供たちのことだけを考え続ける女、玉木。この玉木を演じる田中絹代をカメラが捉えるときだけは、カメラはじっくりとこの玉木の一挙手一投足に注目する。しかも、多くの場合それはフルショット(全身がフレームに収まるサイズ)といういかにも溝口らしいサイズの画面で取られている。この玉木が崖の上で安寿と厨子王の名前を呼ぶシーンの緊張感、これは溝口の映画でなくては味わえないものである。
こう考えてみると、この映画もやはり女性が主役だ。物語としては厨子王が中心になっているようだけれど、その物語を動かし、映画の中心になるのは安寿と玉木である。厨子王が担うのは、戦後民主主義的な思想という戦後溝口が失敗し続けてきたテーマであり、この平安時代を舞台した古い説話とはどうにもすりあわせようのないテーマだから、なおさらにそのようなことを感じる。
溝口はこの作品でさすがの映像的表現のすばらしさを観客に見せはしたが、テーマについては今ひとつ掴みきれていなかったのではないだろうか。平安という価値観の異なるかけ離れた時代、これをリアリズムで描くのはさすがの溝口でも難しかったというところだろうか。
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