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このころ、溝口健二は第一映画で山田五十鈴を主演にして、『折鶴お千』『マリアのお雪』『お嬢お吉』『浪華悲歌』『祇園の姉妹』という5本の作品を撮っている。それらは山田五十鈴演じる女性が主人公となって、基本的には不遇をかこつ物語である。主人公の職業や境遇は様々であっても、不遇であるという点においては変わらない。
この『浪華悲歌』では、山田五十鈴は普通の店員(今で言えば会社員)で、ただ父親が会社の金を横領まがいのことをしたか何かで、会社から300円の金を返せと迫られている。山田五十鈴演じるアヤ子もそれを心配し、足りない分を将来は一緒になってもいいと考えている同僚の西村に用立てて欲しいと頼むのだが、それもままならない。アヤ子は、そのような状況なのにのんきに釣りなぞしている父親に腹を立て、家を飛び出して、妾になって300円という金をこしらえるのだ。
普通ならば、このアヤ子の献身的な行為によって家族は絆を取り戻し、西村も引っかかるものがありながらも自分の不甲斐なさを恥じつつアヤ子を受け入れて、となりそうなものだが、溝口は徹底的にやる。何を徹底的にやるかといえば、男の情けなさを徹底的に追求して行くのだ。父親はアヤ子に例を言うこともなく、西村は真実に目を向けることが出来ない。さらには就職は決まったが学資が足りなくて卒業できないと泣きついてくる兄まで出てくる。彼らは自分の情けなさを棚に上げて威張り散らし、その実何もしていない。
そして、さらにはアヤ子を妾にした店主麻居の友人である株屋の藤野もアヤ子の弱みに付け込んで関係を迫る。アヤ子も気概を持ってそれに対抗するのだが、藤野のほうが卑劣さでは一枚上で、アヤ子はさらに困った立場におかれ、周りの男たちはさらに勝手な振る舞いでアヤ子を悲惨な境遇に追いやるのだ。
それを助長しているのは、アヤ子以外の女たちのキャラクター付けである。他の作品では主人公と周りの女たちは反目しているにしても、どこかで分かり合っていたり、了解していることがあるものなのだけれど、この作品では周りの女性もアヤ子の見方にはならない。必ずしも敵になるというわけではないのだけれど、彼女たちもアヤ子と同じく卑劣な男たちに振り回されて、不幸な境遇へと落ちて行くのだ。麻居の妻も、アヤ子の妹も、夫や父親という卑劣な男たちに振り回され、自分の立つ場所がなくなり、不幸になって行く。その不幸の原因はあくまでも男たちにあるのだ。
このようにしてとにかく徹底的に男たちの卑劣さと情けなさを描いた作品は溝口の作品の中でも珍しい。溝口の作品は不幸だけれど崇高な精神を持つ女性を主人公として、その周りに情けなく卑劣な男がいるという構図が多いが、この作品はその男がたくさんいて、しかも卑劣だったり情けなかったりする度合いも非常に高いという意味で傑出した作品だ。作品として面白いかということよりも、そのような溝口の特徴のひとつがと出して表れた作品としての面白さを感じてしまう。
溝口がこのように執拗に男の情けなさを描くもとには、父親に対する感情があり、自分自身も情けなく、卑劣な男であるということを常に意識していたようだ。それが作品に転移しているということらしいが、それはまた別の話。
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