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この映画の最初の印象は奇妙なものだ。話し方も、カット割りも、不自然というか作り物じみている。回想シーンに重ねられるナレーションの違和感、小野と藤尾が会話するシーンの正面からの切り返しの違和感、棒読みのようなセリフの違和感、これらの不自然さが映画全体を覆っているような印象だ。
その印象はしばらく続く。映画の中盤で、小野が小夜子と一緒に居るところで藤尾に出会ってしまうという場面があるが、この場面でも異常なほどに細かい切り返しでその不意の出会いが描写され、それは突飛といったほうがいいほどに異様で、しかし強烈な印象を与える。しかしこのシーンを見た瞬間、なぜかこの不自然さが力強い描写のように見えてくる。斬新で革新的な、それこそヌーヴェル・ヴァーグの若き作家たちが熱狂しそうな革新性。そのような革新性があるからかどうなのかはわからないが、ともかくこのシーンのあとに、この映画にはぐんと力が出てくる。作り物じみた映画空間が、ぐっと心に迫ってくるのだ。
その理由は、このシーンのあと、観客はぐっと小野の立場に引き込まれていくからだ。恩師への恩とその娘小夜子への思い、それと藤野への恋情、その思いに引き裂かれた苦悩を観客は共有するようになるのだ。それは、この不意の出会いのシーンに強烈に示される小野の視線である。そしてその直後のシーンにある小野の小夜子を見る視線である。このふたつの視線によって観客は小野の立場によりそい、映画の内部へと引き込まれる。
しかし、それだけでこの映画が面白くなるわけではない。観客は単に小野の立場に引き込まれるだけではなく、それ以外の登場人物の視線へも導かれていくのだ。小野の視線に導かれ、小野の立場に寄り添うというのは、観客がその物理的な進退を離れ、スクリーンの向こう側という映画的身体へと入り込むその導入に過ぎないのだ。観客はスクリーンの内側で宗近、藤野、欣吾、さらには孤堂、浅井とそれぞれの視線に乗っかり、その気持ちを自分の気持ちのように感じる。それを実感するのは、窓からのぞき見る欣吾と宗近の視線であり、それによってもたらされる藤尾は結局誰からも捨てられてしまうのではないかという予感である。
それはあまりに幸福な映画体験だ。そして、それに呼応するように展開も一気に加速していく。目くるめく展開、無数の登場人物を渡り歩く映画的身体、それはめまぐるしく変わる視線のコントロール、それぞれの視線の持ち主の心の中に観客はすっといざなわれる。
そして、最後の藤尾と宗近の対面シーン、ここでの藤尾と宗近と、そして時計と荒波のモンタージュ。このモンタージュの見事さは筆舌に尽くしがたい。
この作品を見ると、ヌーヴェル・ヴァーグの若き作家たちが溝口に熱狂したというのもわかるし、それはこの作品が映画的な悦びに満ち溢れているということをも意味している。ここにあるのはまさに幸福な映画体験。映画に没入するということの純粋な体験である。
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