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この映画はR18指定で、その通りセックスシーン満載なわけだが、そこには観客のセックスシーンと女優の裸を見たいという欲求を満たす以上の何かがあるのだろうか? 物語の展開上必要といえば必要だが、決して演技がうまいというわけではないからリアリティがあるわけでもなく、どうしても脱がなきゃいけなかったというわけでも無い気がする。確かに、ハリウッド映画がそのようなR指定を避けるためにいろんな手を使って裸を映さないようにするというのも不自然ではあるが、裸を見せりゃ自然ってわけでもない。
この映画を見ながら私が思ってしまったのは、商品としての映画を売るための戦略の違いということだ。裸を見せないことで、そもそもの見れる人数を多くして、観客を増やそうとするのか、それとも有名女優の裸という売り物で特定の観客を集約的に集めるのか、という戦略の違い。この映画はただ後者の戦略をとったというだけで、それ以上に裸を見せる理由は無いのではないか、と思ったのだ。
そんなことを考えていると、映画への興味は薄れてしまうわけだが、実際この映画の物語は平凡なものに過ぎない。昔の恋人との不倫、夫の失業、ただそれだけの話、それ以上でもそれ以下でもない。しかし、映画の最後にはなかなか面白い展開がある。映画として多少なりとも引き込まれるのはそこだけだと私は思うので、ネタばれは避けるが、その最後の展開で映画は救われた。
ここでやはり、話はセックスシーンなどなどの話に戻ってしまうのだが、セックスシーンが多くて、裸が出てきて、男女の関係が複雑だったり、倒錯的だったりすると、必ず“官能的”という形容詞が付される。それで官能的というのは別にかまわないが、映画が官能的であるだけで面白くなるわけではもちろんない。たとえば神代辰巳のように映画が官能的であるがゆえに面白くなるためには、そこに生々しさが無ければならないのではないかと思うのだ。それは、いわゆる“官能的”な映画の文法からずれていて、しかも生活のなかで実感できるような生々しさで無ければならない。この映画で目に付いたシーンにポラがメークを落とすというシーンがある。メークを落とすというシーンは確かに生々しいが、その行為自体がすでに生々しさの記号のようになっていて、それだけで生々しさを表現することにはならない。この映画に足りないのはそのあたりの踏み込みではないか。
どこの国でも女優の裸を売りにしたような映画は作られるが、この映画もそんな映画の域を超えることはできなかったのだと思う。
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