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人情話です。すごくよくあるパターン、学校に新しい若い先生が赴任してきて、一人の生徒に手を焼いて、実はその子が有力者の娘ということで他の先生は手出しをしてこなくって… です。
それ以上でも以下でもなく、単純にそんな話。それを高峰三枝子が元気一杯に演じている。その姿はキリリとした姿はとても絵になっていい。洋服を着たり、着物を着たり、時には運動着を着て颯爽と動き回る、これはその高峰三枝子のための映画であると言っていいはずだ。が、スターの映画というわけではない。人情話というコンセプトがあって、その中で高峰三枝子が自由に動き回り、それをカメラはどっしりと構えて見つめる。何の演出も何の特殊な技巧も必要としない単純明快な映画的な世界がそこにはある。カメラがあって役者がいる。監督はフレームを割って、役者はそのフレームの中で演じる。ただそれだけの単純なことで面白い映画を作ることができる、そんな見事な例なのである。
物語は最初に書いたように単純至極で、はっきり言って結末までの物語の流れはあっという間にわかってしまう。基本的には信子と頼子の関係、そして頼子がなぜそんなに問題児なのかということ、それが物語の筋となっているのだが、そんな結末は見えているので、この映画を物語の展開を中心に見ていくと、その展開の遅さにじれったくなってしまうほどなのだ。
しかし、この映画のあまりに当たり前な展開は、逆にわれわれがそのようにして映画を観ることを拒否するのだ。これはそんな映画じゃない。推理小説のように先の展開がどうなるかをはらはらしながら見る映画じゃないんだとあらかじめ告げるのだ。
人の人情の温かみ、それでいてべたべたしすぎないすっきりとした関係、そのようなものを描いて、観客をほっとさせる。展開が予想どおりになっていくというのも観客がほっとするのにどうしても必要な要素だ。特にこの映画が作られた昭和15年といえば、戦争はますます激しくなり、国でこの映画を見ている人たちの大部分は夫や息子や父親を戦地に送り出していたはずだ。映画の中でも先生たちが「私は独身で子供がふたりいる」などと言っているように、世の中は不安感に包まれていたのだ。その不安感を一時でも和らげる。この映画にはそんな機能があったのではないだろうか。
それは今の世の中にも言える。それは、いま映画というのが人々に世の中で起きていることから目をそらすために使われているということの表裏一体のことではないか。いまこのような古典を見ることは、映画がどのような機能を果たしてきたのかということを考えることにもつながる。
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