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ジュリアンが初めて登場するとき、ぼろぼろのズボンからぼろぼろの鞄までカメラはゆっくりと映していく。その執拗さにすでにトリュフォーの思い入れが感じられてしまう。トリュフォーの映画の傾向のひとつは不幸な境遇にある少年に対する思い入れであるだろう。つまりこの作品は、処女作である『大人は判ってくれない』やアヴァロンの野生児を描いた『野性の少年』と同じテーマで作られているのではないかと考えられるのだ。
しかし、映画はそんなジュリアンを置いてきぼりにして(ジュリアンにかまうのはパトリックだけだ)、陽気に子供たちの日常を描いていく。問題児の兄弟や薄汚れたぬいぐるみのバッグに固執する少女の姿は見ているだけで楽しい。しかし、どうもトリュフォーの思い入れは彼らにはないように思えるのだ。陽気そうに描いているが、そこにはどうも愛情が感じられない。考えすぎだと思うが、彼らのような子供はつまらない大人にしかなれないとでも言いたげであるように思えてくるのだ。
トリュフォーが思い入れるのはもちろんジュリアンだ。彼はおそらくトリュフォー自身の少年時代をいくばくかはモデルにしているだろう。作家の伝記を参照することが映画を観る助けになるとは限らないが、トリュフォーに限って言えば、彼の作品は彼の生い立ちを参照にすることでよりよくわかってくるように思える。トリュフォー自身、不幸な少年時代を送った。親にいじめられたかどうかはわからないが、親からの愛情を感じることが出来なかったようだ。その打ち捨てられたような感覚が、『大人は判ってくれない』のアントワーヌになり、この作品のジュリアンになったのではないかと思う。トリュフォーは映画で自分自身の少年時代を生きなおすことで、何かを埋め合わせようとしているのではないかと思うのだ。
そんな中、この作品で注目したいのはパトリックという少年だ。体の不自由な父親(自動ページめくり気を使って日がな一日読書をしている)と二人暮しで、友達の母親に憧れを抱く少年。彼は素直で、父親のことを愛し、快活といえるかどうかはわからないが、それなりに明るく生きている。そしてなんと言っても彼はみなに愛されている。この少年にはトリュフォーの憧れが込められているのではないかと思うのだ。パトリックのような少年時代が送れていたらと思っているのではないだろうかと。
そしてこの映画に登場するリシェ先生にもトリュフォーが思う理想的な先生像が投影されているのではないかと思うのだ。子供を理解していて子供の味方で、しかしやたらと甘いわけではない。
大人になったトリュフォーはこのように自分の子供時代を経験しなおしながら、このリシェ先生のようになることを考えていたのかもしれない。
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