この映画はなんといっても三浦綾子の原作の力がすごい。妻が自分の同僚(部下)と関係しているのではないかという強い疑いを抱く医師の辻口、そして彼らが密会していたらしいそのときに、娘が殺されるという事件がおきるという悲劇。妻・夏枝は神経を病み、夫・啓造の内部でも何かが起きる。そして、その殺人犯の娘を夏枝に育てさせようということを考えてしまうのだ。
それは壮絶な物語である。しかも、夏枝も早々にその娘陽子が殺人犯の娘であることを知りながら、夫にそのことを告げずに育て続けるのである。夫と妻の間に横たわる深い溝、それはそもそも誤解と悲劇的な偶然から始まったわけだが、その小さなボタンのかけ違いが周辺をも巻き込んだ大きな悲劇となってしまう、
三浦綾子といえばキリスト者として有名であり、その作品にもキリスト教的な「罪」の問題が大きく反映されている。この映画でも終盤にそのような罪=原罪がセリフとして出てくるわけだが、映画の全体としてはそれほど大きな問題にはなっていない。しかし、この物語の底流に現在の問題が流れていることは明らかだ。この映画の登場人物たちは誰しも明確な罪を犯しているとは思えない。しかし果てしない悲劇の網に絡めとられてしまうのだ。
罪を犯したとすれば、夏枝は姦通を(頭の中で)犯し、啓造は猜疑心を抱いてしまう、という心内の罪に過ぎない。
問題なのはそのような具体的な罪ではなく、人間がそもそも抱えている原罪であるのではないかと思う。息子の徹や、問題の焦点にいる陽子には具体的な罪はないように思える。しかし、それでも彼らは悲劇の淵に立たされ、底なし沼のような悲劇的な運命に引き込まれていってしまうのである。
夏枝は最初は良妻賢母という感じで、陽子が殺人犯の娘だと知らない間は本当に自分の娘であるように育てる。夫との間の関係はすでに冷め切っているようだが、その中でも生きがいを見つけて生きていくのだ。生きがいという意味で言えば、陽子が殺人犯の娘であると知ったあとは、夫に復讐することを生きがいして、息子の友達にちょっかいを出したりする。そんな中で陽子に対しても嫌がらせというか、不幸な人生を送るよう仕向けるという陰険なところも見せる。
彼女のキャラクターは時代の変化の中で、主体性を獲得しながらそれを向ける先を見つけることができない女性上を象徴的にあらわしているようにも見える。いったんは見つけた子供という生きがいを二重に奪われることである種自暴自棄になって、間違った方向に進んでしまうわけだ。
女性が解放されてゆく時代の中で、そのように行き詰まってしまう女性も必ず出てくる。この映画はそれをうまく描いているし、三浦綾子もそのような女性を描いてきた作家であるだろう。
だから、この映画は「女性映画」という視点で見るとまた違う相貌を呈する。どろどろとしたサスペンスとしてみるのもいいが、浮かび上がってくるひとつのテーマに注目して見るのも面白い。
|