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斬る

2004/12/1
1962年,日本,71分

 
            
     
 
 ひとりの侍女が奥方と思しき女性を刺し殺す。その女性は打ち首となる。とある城には赤ん坊が運ばれてきて、とある侍に預けられる。その二十余年後、青年となったその赤ん坊は三年間の旅にでる。帰ってくると、城下には剣の名人という多田草司が来ていた…
 市川雷蔵が出生に秘密を持つ剣士を演じた非常にシンプルな時代劇。映像がアバンギャルドで、鮮やかなのが非常に印象的。
監督 三隅研次
原作 柴田錬三郎
脚本 新藤兼人
撮影 本多省三
音楽 斎藤一郎

出演 市川雷蔵
    藤村志保
    渚まゆみ
    万里昌代
    成田純一郎
    丹羽又三郎
    天知茂

 

 

 


斬る

斬る

 

 

 
 この作品の画はおかしい。映画の始まりは一人の侍女が居室に横たわっている主の女性を刺そうと構えるというシーンなのだが、その始まりは、その侍女のものすごいクローズアップである。頭を下げたその侍女が頭を上げるとき、髷を映すだけで2秒くらいかかるという超ドアップ、顔を捉えても、目から口まで全部は入らない。そして、切り替わって居室を真上から捉えるショットもなんだかおかしい。これはある種の様式美で、たとえば鈴木清順の作品などを思い出すわけだが、果たしてこれが美しいのかどうなのかは微妙なところだ。
 まず、「おかしい」という感覚が生れるのは、この作品の映像がわれわれの日常感覚からずれていることからくる。映画というのはわれわれの日常空間を二次元の限定されたフレームに切り取ったものだから、そもそも不自然であることは否めないわけだが、それでもわれわれが日常経験する視覚からそれほど違和感がないように組み立てられることで現実感を持つことが出来るわけだ。そこから極端にずれると、その映画は「おかしい」という感覚を生む。それは映画独特の文法とかそういったことではなく、単純に現実とのギャップの問題である。いかにも書割という背景を見て感じる違和感もそのような現実のギャップから来ている。
 この映画の「おかしさ」は視線の現実との違いから来ている。最初のシーンで言えば、人の顔をそんな至近距離で見るなんてことは日常ではほとんどありえないし、そこからいきなり視線が真上に飛ぶという移動も日常感覚から大きく外れている。
 そして、市川雷蔵演じる高倉信吾の妹を演じる渚まゆみの棒読みにセリフも大きく日常感覚から逸れる。果たしてこれがわざとなのか、それとも演技が下手なだけなのかはわからないが、この棒読みは映画にはピタリとあっている。このセリフの違和感は映画全体の違和感を助長して、ひとつの世界といえるようなものを築くのに役立っている。
 このようなある種異様な雰囲気を好きか嫌いかは個人の好みの問題だが、これはこれでひとつの完成された世界として面白いものだと思う。

 物語のほうはたいした話ではない。含みがありそうな語られ方はしているが、映画としてはこの独特の世界観を築き上げ、それを演出することが眼目であり、物語はそれを補佐する要素に過ぎないと思う。途中で登場する万里昌代演じる佐代の激しさ、異様に見開かれた眼、それと映画の冒頭に登場する侍女との類似、それらを深みのある物語として組み立てるには70分という時間は短すぎる。
 それよりも、映画の様式というものを見たほうが面白い。
 この映画を見ながら、映画というものがそもそもいかに異様なものであるかということを考える。映画とはそもそもこの映画のように異様であることが容易であるものなので、逆に自然に見せるほうが難しいのかもしれない。われわれが「自然だ」と考える映画こそが非常に多くの制約にしたがって撮られた「様式的な」映画であり、この映画のような「おかしい」映画のほうが実は自由で「古典的な」映画ともいえるのではないかと思う。