樋口一葉の小説をちゃんと読んだことはないが、この映画に登場する少女と少年のエピソードが小説の題材となったらしいことはわかる。少女を演じているのは高峰秀子、少女は吉原の置屋の娘(もちろん実の娘ではなく、子供のうちに買われるか何かして大人になるまで娘として育てられているのだろうが)で、裏町に住む少年“たんこう”に淡い恋心を抱く。
その少年たんこうは表町の娘たちと付き合っているからといっていじめられるが、勝気な少女はその少年をかばい、いじめる横町少年たちに向っていく。この横町の少年たちというのがたんこうより少し年上で、少女がゆくゆくは花魁になること、そして花魁や吉原の何たるかを知り始めた年頃なのが、ポイントになる。
この幼いふたりの恋と並行するように、一葉の断ち切れない思いが綴られる。あらぬ噂を立てられたことで身を引いた半井桃水への思いは断ち切れず、幼いふたりを見たり、花魁に“まぶ”への手紙を代筆してくれと頼まれることで、思いが募る。この花魁の手紙を代筆しながら、窓が降りしきる窓外の風景を眺める山田五十鈴の姿は息を呑むほどにすばらしい。山田五十鈴というのはいまの美的感覚からすると絶世の美女という感じではないと思うが、ふっと物思いにふけったり、気持ちが沈んだりしたときにふっと見せる表情にはえもいわれぬ美しさがある。これを日本的な美というのか、それとも山田五十鈴独特の味わいというのかはわからないが、ともかくぐっと引き込まれるような美しさがあるのだ。
山田五十鈴はそのような演技でぐっと樋口一葉の人物像を自分のものにしているように思える。もちろん樋口一葉がどのような人物だったのかははっきりとはわからないわけだが、山田五十鈴を見ていると「樋口一葉はこのような人だったのだろう」と思えてくるのだ。
そして、その一葉が高峰秀子演じる少女がついに芸者の見習いとして挨拶に出かけ、“たんこう”が奉公に出るために家を出るのを見て、書いていた原稿の題名を「たけくらべ」と変える。樋口一葉の代表作である「たけくらべ」はこのような日常生活で見た風景から生まれたのだ。
この映画のこのふたりのエピソードがすばらしいのはその「たけくらべ」が題材になっているからだろう。脚本の八住利雄は多くの名作を脚色している名脚本家だが、このころはまだまだ若手で、この作品はいわゆる出世作になった。その八住利雄が「たけくらべ」を見事に利用してすばらしい脚本と書いたという印象だ。
そこに立ち現れる感情の機微はまさに樋口一葉の世界という感じ、樋口一葉の作品を原作として映画にするより(八住利雄は55年に『たけくらべ』の脚本も書いている)も、このように伝記的な作品のほうが、一葉の世界が表現できるのではないかと思うのだ。
一葉の世界につかるならこの映画がいい、とおもったりした。
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