この作品でまず眼がいくのは特撮だ。映画のはじめから、透明人間がガムを噛むというシーンがあり、続いて、ところどころ透明化されたビルが出てくる。これらは従来の特撮技術ではかなり難しいことで、ビルなどはガラスなどを使って模型を作るしかなかったはずだが、この作品ではCGを使ってそれを表現している。今となっては、そんなものはCGとすらいえないものかもしれないが、当時の技術からすれば、CGを実写映画に違和感なく挿入するということ自体が難しかったはずだ。
つまりこの映画はまだ本格的に使うのはためらわれたCGが使えるかどうかの実地試験という性格を持つ。そのために透明人間というおあつらえ向きの題材を選び、B級コメディという失敗しても困らないようなジャンルで、新しいことに挑戦することをためらわないジョン・カーペンターを監督として作ったものなのではないかと思えてくる。いわば、将来的にCG技術を大作に利用するための投資という位置づけがされるのではないかと思うのだ。
その証拠にというわけではないが、ILMの親玉スピルバーグ初の本格的なCG大作といえる『ジュラシック・パーク』が作られるのは、この作品の翌年の93年になる。
そのようなに特撮史の中でこの作品を捉えるのは非常に面白い。
そもそも『透明人間』といえば、1933年に撮られた特撮映画の古典、巻いていた包帯を解くと顔がないという古典的な特撮も当時は新鮮な驚きがあっただろう。この作品でもニックが包帯を解いて見せるシーンがあるのは、そのオリジナルの『透明人間』に対するカーペンターなりの敬意の表現であると思うし、カーペンターは映画というものがそのようにして積み上げられてきたものであることを常に意識しているから、実はこの作品にうってつけの監督だったのかもしれない。
しかし、カーペンターの作品群の中ではこの作品はあまり評判がよくない。カーペンターといえば、グロテスクなアクションあるいはホラー、圧倒的な勢いとパワーが魅力なわけで、このようなライトなコメディはカーペンター・ファンからしてみれば「何やってんだ、ジョン!」といいたくなる気持ちはわかる。 それでも、主人公のキャラクターが複雑さを持ち、決して単純に正義と悪とを割り切ることが出来ないというのはカーペンターらしいテイストである。悪役となるのがCIAという政府の機関だというのもカーペンターらしい辛辣さだし、終わり方がすっきりしないというのもいつものカーペンターだ。
実はこの作品のように周囲の要求と妥協して作品を作るというのもカーペンーのひとつの特徴なのかもしれないと思う。依頼主に課された制約の中でいかに自分らしさを表現していくか、その制限の中で表現するということこそがカーペンターの挑戦であり、その抑制された表現が彼の映画の魅力なのではないかと思うのだ。
潤沢な資金で思い通りに映画を作るよりも、様々な制限のある中で工夫をしていったほうが新しいものが生れてくるのではないかと思う。例を挙げるならば、『ハロウィン』のブギーマンのマスクは恐怖を演出するためのもっとも安価な小道具だったから採用されたのだ。それがマスクもののホラーの元祖となった。
確かに、たいした映画ではないが、楽しもうと思えば、なかなか面白い見方が出来るという作品ではないかと思う。
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