この映画の眼目のひとつは芹沢教授の兵器にも転用しうる新発明である。これを使えばゴジラを退治することが出来るという論法から、その使用を主人公である尾形たちは求めるのだが、芹沢教授は「人間とは弱いものだから、いくら秘密にしようと思っても、いつかは悪用しようという人の手に渡ってしまう」と言う。これは科学者というものが純粋に科学に携わっているつもりでいながら、巨悪に加担してしまう可能性があるということを強く意識した考えである。その背景にはもちろん、原爆がある。原子力の発明自体は新しいエネルギーの発明に過ぎなかったはずだが、それが平気に使われることで科学者は大量殺戮に手を貸すことになってしまった。
水爆によって住処を追われたゴジラを退治するために新たな原爆を産む棄権を犯すことは出来ないと考えるのは科学者として当然である。
そして、芹沢教授も戦争で深く傷を負ったらしい(片目の眼帯がその象徴だろう)。それ以外にも、疎開について語るエピソードが挟まれたり、怪我人が運ばれる病院が野戦病院を想起させたり、ゴジラに襲われた東京が関東大空襲を思い出させたりと、戦争を思い出させるようなエピソードが数多くはさまれる。
これはおそらく、敗戦から10年近くがたち、少しずつ戦争を忘れつつあった人々に戦争を思い出させることになったのではないかと思う。戦争を描かずに戦争の悲惨さを余すことなく伝える。ゴジラに襲われそうになり「もうすぐお父さんのところに行くのよ」と幼い子供にいう母親、「皆さんサヨウナラー」といいながら、最後までテレビ塔で中継を続けるアナウンサー、彼らが思い出させる戦争は見る人を改めて「もう戦争はいやだ」という気持ちにさせるだろう。この映画は究極の平和主義映画なのかもしれない。
もうひとつの眼目は、志村喬演じる山根教授のゴジラに対する態度である。人々はとにかくゴジラを退治することを考え、それに腐心するわけだが、山根教授だけはゴジラを研究対象とすることを考えている。彼は決してゴジラのためを思ってやっているわけではないが、内心のどこかにはゴジラを救いたいという気持ちがある。しかし、船舶が襲われ、人々が死に、心は引き裂かれる。ここで表現されているのは人間のエゴイズムである。明確に環境問題と言うものが意識されているわけではないが、水爆による環境破壊によって住処を奪われたゴジラを“退治する”するという発想は明らかに人間の自然に対する態度を問い直すことにつながる。
この映画では山根教授以外にはゴジラを退治することに疑問をさしはさむ人がいないが、現代の観客の大部分は「ゴジラがかわいそう」と思うだろうし、当時もそう思う人は多かったはずだ。
特撮映画=子供向け、と一般的には考えられるわけだが、この作品は決して子供向けの能天気な勧善懲悪映画ではなく、非常に考えさせられる映画である。このようなところから始まった日本の特撮映画が、ハリウッドの特撮映画とまったく異なるものになっていったのはとてもよくわかる。怪獣映画であるにもかかわらず、その怪獣を倒していいどうかに疑問わき、倒したあとでも達成感よりも物悲しさを感じる。そのような日本の怪獣映画のほうが私は好きだ。
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