更新情報
上映中作品
もっと見る
データベース
 
現在の特集
サイト内検索
メルマガ登録・解除
 
関連商品
ベストセラー
no image

適応と仕事

2004/11/10
Adjustment and Work
1988年,アメリカ,120分

監督
フレデリック・ワイズマン
撮影
ジョン・デイヴィー
preview
 『視覚障害』『聴覚障害』に始まる“Dead & Blind”シリーズでワイズマンは障害者教育の現場を撮影対象にした。そのシリーズは全4作有り、この作品はその3作目。この作品でワイズマンは障害者たちが学校で自立のための訓練を受けたあとに実践的な教育を受ける過程と、障害者たちが働く作業場の様子を撮影した。
 そこから浮き彫りになるのは障害者にとって自立が容易ではないという事実だけではなく、社会が彼らを受け入れることの難しさである。われわれの社会には彼らのような障害者が個として存在しうる領域があるのだろうか?
review
 町の風景から、建物を移し、学校の内部へと入っていくという展開は“障害四部作”に共通する導入である。この4部作に共通の舞台となるのはアラバマ聾盲機構(the Alabama Institute for the Deaf and Blind)であるが、このこと自体は特に問題にならない。4本の作品が同じinstituteを被写体にしているという意味でワイズマンの作品の中で特殊な位置を占めはするが、このシリーズがアラバマ州という特定の地区について描こうとしているのではなく、アメリカを代表する例として選ばれただけであることに変わりはない。
 そして、4部作であるということも実は特別意味のあることではない。映画として関連付けられているわけではないし、それぞれを別の場所で撮ることが可能だったらワイズマンはそうしたのではないかと思うのだ。

 それでも、テーマ的な部分では関連していることは確かだ。その中でこの作品はもっとも地味な作品となっている気がする。
 この映画の前半を支配するのは停滞感だ。何をやるにも遅々として進まない感じ、映画の最初に登場するのは、一人の視覚障害者に皿をテーブルに並べるという作業をやらせる過程である。そこではまず、テーブルの上を片付けさせるのだが、眼が見えないからその上にあるものを戸棚に移すだけでも大変な時間がかかる。しかも彼は後でそれを戻すことが出来るように置いた場所を覚えておかなければならないのだ。そんなこんなで時間は経てども映画は進まないという状態がしばらく続く。
 それはやがて観客を退屈させるに至るわけだが、このことでこの映画自体が退屈だということにはならない。確かに退屈するのだが、それはここで描かれている障害者たちの時間の流れ方なのだ。彼らの時間がどのようなものであるかを観客にわからせるためには実際のそれを体験させ、退屈させるしかない。そのような意図の下にこのような冗長とも思える映像を作り上げたのではないかと思えてならない。観客は障害者たちのスローな行動に苛立つが、その苛立ちが時間感覚の違いなのである。

 しかし、映画が後半に入り、実際に彼らが作業している作業場が舞台になるとそのような退屈さは払拭される。彼らは彼らなりにきびきびと作業をしており、単純な作業に過ぎないにしても立派に労働できていると感じることが出来るのだ。そこに、就職しようと考えているらしい生徒3人が先生につれられてやってきてそこで働く人々の仕事のリズムを説明したりするので、なおのことその感覚は強調されるのだ。
 しかし、やはりそこでも問題は持ち上がる。その作業場の運営スタッフは健常者と障害者の両方で構成されているのだが、お偉いさんらしい健常者は障害者たちが病気を口実に頻繁に休んだり、仕事をさぼったりすることに不満を述べる。そこで露呈されるのは障害者たちの労働意欲の問題だ。そして同時に彼らに支払われる給与が完全に彼らの働きによって得られるものでなく、一部が政府の援助によって払われていることも明らかになる。
 つまり、彼らはそこでは完全に自立した存在としては扱われていないということだ。われわれは障害者に単純な作業をあてがって、実際の労働価値以上の賃金を払い、それで障害者たちの自尊心を満たして、目をつぶる。障害者たち(の一部)はその仕組みに甘えて手を抜く。
 もちろん、障害者たちは日常生活の段階で健常者たちより大きな負担をしょわなければならないわけだから、彼らに健常者と同じ労働価値基準を適用するということ自体に無理があるということも出来るだろう。しかし、ここで問題となっているのは、そのような理念ではなく、健常者と障害者の関係なのである。この映画を観る観客の大部分を占めるいわゆる健常者は障害者を恩恵を施す対象としてみている。そして障害者もそのように恩恵を受けなければ生きていけないということを受け入れている(それを負い目と感じるか、当たり前と感じるかは別にして)。
 だとすると、そこに対等な関係はない。そして、障害者の本当の自立はない。彼らにも教育を受ける権利があり、社会は彼らに社会で自立できるだけの教育を施す義務があることも確かだ。しかし、その教育によって彼らをスポイルしてしまってはいないか、という疑問も付きまとう。彼らはどこかであきらめてしまい、自分の限界を低く設定してしまう。
 この作品に登場する30代まで大学に通い、結局卒業できそうもなくて、専門であるプログラムの仕事はあきらめて、縫製の仕事を学ぼうという視覚障害者の男性がその典型的な例だ。彼にはハンデがあるから、勉学が困難なことは確かだ。しかし、そのハンデによって彼は同時に特別視され、甘やかされてもいたのではないだろうか。

 考えれば考えるほど、その関係は難しいような気がしてくるが、映画を観ていると、そのような行き違いも実は些細な誤解や互いの不理解から生じているものに過ぎないという気がしてくる。

Database参照
作品名順: 
監督順: 
国別・年順: アメリカ60~80年代

ホーム | このサイトについて | 原稿依頼 | 広告掲載 | お問い合わせ