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キャンディ

2004/10/30
Candy
1968年,イタリア=フランス=アメリカ,124分

 
            
     
 
 美少女キャンディの学校に著名な詩人のマクフィストがやってくる。他の生徒たちとともに熱狂していたキャンディにマクフィストの手紙が渡され、キャンディはマクフィストの車に。キャンディは案の定襲われるが、折りよく自宅に到着。しかし酔いつぶれたマクフィストを介抱しようと地下室に連れて行くが、こんどはその手伝いをしていた庭師のエマニュエルがキャンディに襲い掛かる。そしてそこに父親が帰ってきて…
 60年代を代表するカウンター・カルチャーの作家テリー・サザーンの原作を豪華キャストで映画化した作品。60年代のカルチャーが凝縮されているようで興味深いが、映画としてはいまいち退屈。
監督 クリスチャン・マルカン
原作 テリー・サザーン
脚本 バック・ヘンリー
撮影 ジュゼッペ・ロトゥンノ
音楽 デイヴ・グルーシン

出演 エヴァ・オーリン
    マーロン・ブランド
    リチャード・バートン
    ウォルター・マッソー
    リンゴ・スター
    ジェームズ・コバーン
    ジョン・ヒューストン
    シャルル・アズナヴール
    ジョン・アスティン
    エルザ・マルティネリ

 

 

 

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 基本的にはお色気高校生に惑わされた大人たちの話、あるいは無垢を装いながら大人たちをたぶらかす妖婦の話というわけだが、その底辺に横たわるのはこの映画が撮られた60年代に至るまでのカウンター・カルチャーの歴史ではなかろうか。
 この映画の始まりは宇宙から霧のような物体が降りてきて、それがキャンディとして実体化する(という夢をキャンディが見る)というシーンなわけだが、これは非常にニュー・エイジっぽい考えであるような気がする。私はそもそもニュー・エイジの何たるかがわかっているとはいいがたいが、イメージとしては即物的ではない霊魂とかオーラとかそういったものを現実と結び付けようとしているという気がする。この映画の導入はまさにそのイメージにピタリと来る。
 そして、次にくるのはマクフィストという詩人である。彼が象徴してるのはおそらくビート・ジェネレーションではないかと思う。彼の詠む詩の内容からしても、そのポエトリー・リーディングのスタイルといいギンズバーグかバロウズかというところだろう。そのシーンでマクフィストに絶えずスポットライトが当たり、風が吹いているのはどうもよくわからないが、これもきっと何かの暗喩なのではないかと邪推してみたりする。
 そこからしばらくはコメディ色が強くなり、オフ・ビートの笑いが続く。ビートやニュー・エイジとコメディとの結びつきはなかなか想像が難しいが、カウンター・カルチャーというからにはやはり王道的なスラップスティックな笑いではなく、オフ・ビートないわゆるB級な笑いが求められるというのは納得がいくところだ。

 その後もキャンディの受難は続くわけだが、この受難と放浪というのも、いかにもな感じがする。ヒッピーが「ヒッピー」と呼ばれるようになったのは1967年といわれるから、この映画はまさにヒッピー・ムーブメントが盛り上がらんとする頃、ヒッピー文化の担い手たちが盛り上がっていた頃なのではないかと思う。だからこの映画にはヒッピーのそして60年代の勢いがそのままある。
 映画の終盤では“グル”が登場する。グルといえばもちろん、ヒンズー教の伝道師のことであり、ヒッピーたちのカリスマである。そのグルが導く先は無我の境地、物から解放された精神のユートピアである。

 この映画は、果たしてセックスによってそれらがもたらされるといいたいのか、それともそれらの「思想」などというものはセックスにまつわる欲望によって生み出されたまやかしでしかないということをいいたいのか?
 このあたりはよくわからないのだが、それはまたヒッピーというもののわかりにくさでもある。セックス、ドラッグ、ロック、それらがカウンター・カルチャーであることはわかるが、どうしてそれがインドに、ヨガに、悟りにつながるのか? それらはアジア的な発想からは理解できないことなのか?
 確かにリアルタイムのカオス的な状況や勢いやモードについては感じることが出来るのだが、それらが生まれる背景にあるはずの思想を感じることがどうにも出来ない。その辺がよくわからないから、映画に共感することは出来ず、何も頭に入ってこない。これは映画がつまらないということなのか、それともこれこそが無我の境地?