この映画で示唆的なのは、男と女の愛に対する姿勢の違いだ。ベルナールとマチルダという個人のレベルに還元されてはいるが、「男には愛はわからず、理屈ばかりをこねる」ということが語られる。ふたりの恋が破綻した具体的な理由は語られることはないが、明らかなのはその理由がベルナールのエゴイズムにあるということである。
トリュフォーの自伝的シリーズとされる「ドワネルもの」のアントワーヌ・ドワネルも恋に対してはエゴイスティックだった。トリュフォーは自分を含めた男の愛というものをエゴイスティックなものと捉えているらしい。あるいは、この作品のベルナールもまたトリュフォーが自己の似像として生み出したキャラクター(『逃げ去る恋』とは異なるアントワーヌの未来の姿)なのかも知れない。この作品でベルナールが湖で模型のタンカーを動かしているという設定はどうしてもアントワーヌが『家庭』でやっていた仕事を思い出さずにはおかない。ドワネルものを見てきた観客なら、このベルナールをアントワーヌと関連付けて考えてしまうのは避けられないことだと思う。
ここで不思議なのは、ベルナールがマチルダに対しては非常にエゴイスティックになるのに対して、妻のアルレットに対してはエゴイスティックにはならないということだ。そしてそれは決してアルレットに対する愛のほうが弱いということでもないようだ。
ベルナールは以前マチルダに対して理屈で処理できない愛を抱いていた。それは時に狂おしいほどの恋心となり、時に憎しみとなった。それが理屈で処理できないがゆえにベルナールは“狂って”しまったのだ。それに対してアルレットとの愛は理屈で処理できる愛なのだろう。
つまり、アルレットはベルナールを思うように愛してくれる。ベルナールのエゴイスティックな愛をアルレットは受け入れ、ベルナールがそうして欲しいと思うように反応するのだと思う。それに対してマチルダは自我が強い。ことはベルナールの思い通りには進まず、ベルナールはイライラを募らせ、しかし愛して欲しいと狂おしく思う。
トリュフォーはそのようにして“愛”について語る。そのようにして語り続けるのは、語ることによって自分でもそれを納得しようとしてるからなのかもしれない。
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