溝口の作品を見ていつも思うのは「面白いけど、なんでだろう?」ということだ。「面白い」と思う作品には大まかに言って2つあって、ひとつはとにかく夢中になってみてしまうという面白さ、もうひとつは見ながら納得できる面白さだ。後者ならばどうして面白いのかということも納得でき、それを説明することも簡単なのだが、前者の場合はどのようにその映画に引き込まれていったのかということを分析してみないとその面白さがわからないということになる。
溝口の映画の面白さというのは大概の場合前者であるわけだが、さらに、振り返ってどうして映画に引き込まれてしまったかを分析しようとしてみてもわからないことが多いのだ。この作品も、終わってみれば「ああ面白かった」と思うのだが、考えてみれば非常に地味な映画であり、たいした物語でもないのだ。
この物語は山田五十鈴演じるお千が、自分が犯してきた人生の失敗を償わんがために、その希望を宗吉に託し、自己を犠牲にしても(肉親でも愛人でもない)宗吉の出世を願おうという物語である。そのエッセンスから物語の展開は自ずと見えてくるし、実際、予想通りに物語りは展開していく。にもかかわらずぐいぐいと映画に引き込まれてしまうのだ。
一番大きいのは山田五十鈴の魅力というか、存在感ではないかと思う。とくに映画の後半に入り、お千と宗吉のふたりの物語となったときの山田五十鈴の仕草や表情、それが語る物事は台詞や物語によって語られる物事よりもはるかに多いように思えるのだ。
溝口の面白さというのは、そのような物語や中心的な物事から少し外れた部分に見出せるのかもしれない。それは例えばセルジュ・ダネーが言う『雨月物語』の「宮本の死」のように物語の中心、映画の中心に存在するわけではない出来事によって作り出されるものであるのかもしれない。サブリミナルではないが、観客が明瞭に意識してみているものとは違うところで展開されている物事によって、知らず知らずのうちに映画に引き込まれているのではないかと思うのだ。だから「面白いけど、なぜだかわからない」ということになる。この映画でもきっとそこここに意識には上らないような仕掛けが仕込んであるのではないかと思うのだ。
それは例えば、出会いそうで出会わない、駅のふたり。物語の本筋は回想された過去のほうにあるわけだが、実はこの現在の時空である駅のシーンが重要なのではないかと思うのだ。たとえば、宗吉がこうもりを落とし、駅員か誰かに拾ってもらうというシーン、そこで待合室の中にいるお千と視線が交わされるのではないかという淡い期待がそこにあるのだと思う。それによって観客はお千と宗吉にひきつけられる。
そう考えてみると、視線の力というのもこの映画の重要なポイントなのではないかと思う。山田五十鈴の目の強さ、ここに注目してみれば、少しは面白さを解明できるのかもしれない。
なんにしてもこの映画は、特に後半から終盤に欠けてぐっと引き込まれる映画である。サウンド版として付された解説がたまに邪魔になることもあるが、音楽はとてもいい。
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