三池崇史も今は「国際的な監督」になってしまったが、やはりイメージとしてはVシネの監督であり、そのイメージはすぐに竹内力や哀川翔と結びつく。そして、その三池崇史が一気に有名になった作品といえばその竹内力と哀川翔が共演した『DEAD
OR ALIVE 犯罪者』である。そして宮藤官九郎といえばVシネ好き。自らが所属するバンド“グループ魂”で「竹内力」という曲を作ってしまうくらいのVシネ好きだ。そして、哀川翔の主演作100本のうち多分半分以上はVシネだ。
したがって、この映画は劇場用映画ではあるが内容としては必然的にVシネになってしまう。そしてVシネ感とはつまり、B級感であり、低予算の必然ともいえる「安っぽさ」である。そのVシネ的な映画をおそらく予算もそこそこある劇場用映画として作ってしまう。そのあたりの逆チャレンジ精神のようなものは好きだ。
この映画の構造はどこか『DEAD OR ALIVE 犯罪者』に似ている。映画の前半は完全に安っぽく低予算なVシネの雰囲気だが、終盤に行くと、急に作りも立派になり、あからさまに大金をつぎ込んだとわかる画になっていくのだ。その展開の仕方はそれでいいと思うのだが、その終盤に『DOA』のインパクトは望むらくもない。この終盤の出来すぎた映像展開は逆に拍子抜けというか、肩透かしを食らったような気分にさせられる。
という感じだが、哀川翔と鈴木京香がこの映画を救っていると思う。鈴木京香はVシネ感とは相容れないようなイメージがあったが、これがかなりピタリとはまる。当たり前の役を当たり前のように演じているだけなのだが、そこから肉感とでもいうべきものをうまく漏れ出させている。それは「小学生の子供を持つ未亡人」という設定にまさにふさわしいエロティシズムであり、姿かたちから表情まで見事に崩れかかっている感じがすごくいい。それは先生である哀川翔が陥りそうになる陥穽として完璧なキャラクターなのである。
そして哀川翔はゼブラーマンという昔日へのノスタルジーと、鈴木京香に対する恋愛以前の恋慕(これまたノスタルジーを伴った感情なのかもしれない)によって突き動かされていくのだ。つまり彼は過去に生きる男、正義の味方という未来を救っていくキャラクターであるにもかかわらず過去しか見ていない男なのである。
つまり彼は忘れ去られた存在として登場し、忘れられた過去(つまりゼブラーマン)に生きる。そして彼は自作のゼブラーマンの衣装を着ることによって完全に世間から無視されることを望むのだ。彼がゼブラーマンの衣装を着て初めて外に出ようとするシーンで、私は安部公房の『箱男』を思い出した。段ボール箱をかぶった“箱男”は異質であり、目立つ存在であるような気がして、最初にそれをかぶって外に出るときにはためらうが、実際出てみると周囲は箱男のことなどまったく気に止めず、箱をかぶったその男は世間から容易に抹消されてしまうのだ。ゼブラーマンもそのようにして世間から完全に抹消されてしまう。そのような存在としてまずは登場する。
しかし、そのゼブラーマンを過去から引き上げる少年が登場することによって市川新市も現在へと引き戻される。そしてゼブラーマンの現在的な存在となって物語は加速していくのだ。
ノスタルジーとはそのようにして過去を現在に引き上げていく装置なのかもしれない。
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