60年の学生の話といえば、まずは「安保闘争」である。が、そこは日活、安保は取り上げても、それを作品のテーマにはしない。安保に没頭する学生と、興味はあっても少し距離を置いている学生。物語の主人公は距離を置いている学生のほうで、そこには安保闘争に対する少々覚めた眼がある。そして物語は、そんな時代の空気を背景におしやるようにしてさわやかに進んでいく。
この映画の物語の中心はなんと言っても「セックス」である。とことんまでにセックスが中心となり、すべての物事がセックスを理由として起きると言ってもいい。この物語の中心は芦川いづみ演じる浅田けい子で、時折彼女のモノローグが挿入されたりするのだが、彼女は4人姉妹の長女で、非常に保守的な家に育てられた。これに対して石原裕次郎演じる黒川三郎は有名人である母親に公然と恋人がいるような家庭に育ってきたのである。この2人のセックスに対する考え方の対比がこの物語の駆動力なのである。
だが、実はこのふたりはあまりセックスの話はしない。互いが互いを意識してそういうことを語るのに腰が引けているのかもしれない。それに比べて周りの友人たちはあっけらかんとセックスについて語る。これを捉えて時代の変化というのが、当時の流調だろうと思うが、じつは主人公のふたりの口が重いところにこそこの物語の確信があるのではないか。
監督の中平康といえばモダニズムの旗手、新しいものを貪欲に取り込む作家である。その中平康がこのように変わりつつある風潮の中でも変わらないものを描こうとしたのはなぜか。そのことを考えると面白い。
彼はある意味で浮ついた学生たちの行動、中身を伴わない時代の変化に冷ややかな目を向けているのだと思う。それは彼らの実際の行動を伴わないセックスに関する議論に対してであり、彼らの学生運動に対してである。映画の途中で主人公たちが山の中の人足に批判され、からかわれる場面があるが、その場面にこそこの映画の言わんとしていることが集約されているのだと思う。
が、この映画はあくまでも日活のスター映画なので、そのあたりはさらりとかわし、深入りしないで物語は上滑りをして行ってしまう。
しかし、それでいいのだと思う。
事件としての極端な出来事は歴史に残るけれど、こういったなんでもない人たちは歴史から忘れ去られてしまう。そして、ひとつの時代がひとつのイメージに固着され、それは本来的なものとすっかり変わってしまうのだ。この映画はそのようなイメージの固着化を逃れ、時代の空気とでもいうべきものをじんわりと表現している。
40年の時を経てこの映画を見るわれわれは、この映画の背後に横たわるこの時代に生きた様々な人々の存在を感じ取ることが出来る。とくに、学生一人一人のキャラクターにこめられた多様性が、この時代の若者像に漠然としたイメージを与えるのだ。明確なものがない、ポヤンとして物語のようであるが、それが魅力なのだともいえる。
ところで、この映画のキャストはかなり興味深い。いろいろな人が出ている。そんな中でも私が注目したいのは吉永小百合だ。吉永小百合は15歳のとき、『拳銃無頼帖 電光石火の男』で日活からデビューしている。それからしばらくは端役で作品に出て、62年に『キューポラのある街』でブレイクした。この『あいつは私』でも芦川いづみ演じる浅田けい子の妹のひとりで、出番もかなり少ないが、強烈な印象を残す。それは、彼女だけがこの映画の中で非常に現代的な風貌を備えているからだろうと思う。芦川いづみは確かにカワイイという感じはするが、いかにも当時のスターという感じで現代風ではない。だから今見ると、吉永小百合が眼を引くのだろう。
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