この作品は夏休みらしい少年ものとしても面白みがあるし、宗教の問題が絡んでくることで、大人にも考えさせる深みがある。少年の視点で見ていけば、ひとりの少年がひと夏で驚くべき成長を遂げるという成長物語である。それはそれで面白いわけで、夏休みに家族で見るのに最適という感じだが、本当の面白みは、その少年たちの父親にあるのだと思う。
主人公ピートの父親は消防団員で、8人の子供を養うために必死で働き、協会にもあまり行かず、休日はビールと葉巻で過ごす。しかし、子供たちを愛しているし、彼らのために自分の身を捧げている。しかし、それゆえというべきなのか、意固地で不寛容で差別的な部分もある。しかしそれは、自分の不安とコンプレックスの裏返しでもある。
それに対して、ダニーの父であるラビ・ジェイコブセンは寛容の人である。自分がユダヤ教のラビであるにもかかわらず、息子を改宗させようというピートを受け入れ、むしろ歓迎する。白血病の息子にもどこかであきらめのようなものを感じているのかもしれない。しかし、息子を愛していることもまた確かであり、神と息子のあいだで揺れているのかもしれないのだ。
ここで特に注目すべきなのはピートの父親のジョーである。私から見ると、ジョーはアメリカという国を象徴するような存在であるように見える。マッチョで、意固地で、自信家だが、どこかに不安を抱え、プライドが傷つけられることを極度に恐れる。一応カトリックだが、それほど信仰心が厚いわけでもない。
そして、不安とコンプレックスから、他者に対して不寛容で差別的になる。その不寛容と差別が向けられる相手がこの映画ではラビ・ジェイコブセンなのだ。その不寛容と差別の原因は実際は彼自身の心の中にあるわけだけれど、彼はその原因を宗教に転嫁する。自分が大して信じているわけでもない宗教にかこつけて、他者を非難するわけだ。
ラビとジョーの妻マーガレットはそれを見透かしてしまう。ラビは彼を許しながら深入りすることを避けるが、マーガレットは彼にそのことを気づかせようとする。ジョーにとって至上のものは家族だから、家族に気づかされれば素直に納得できてしまうのだ。
このジョーを襲う不安とコンプレックスというものは、アメリカ社会を襲う恐怖の連鎖と同じものであるような気がする。他者に対する恐怖は不寛容と差別を生む。個人レベルでは、それが家族によって救われることもあるだろうが、社会レベルで行くと、その恐怖の連鎖はどんどんエスカレートして行ってしまう。そして、それが行き着く先にあるのは他者への攻撃である。恐怖が不安を生み、不安が差別を生み、差別が攻撃を生むのだ。もちろん、攻撃が向けられる先にはその恐怖の源があるわけだが、いくら攻撃したところで、不安が消えるわけではない。
それに対して、他者であるラビはジョーを受け入れている。「心が狭い」といいながらも、そのような彼を否定してはいないのだ。
そのようなズレが、ここではカトリックと絡めて考えられている。カトリックの考え方の矛盾、カトリックの不寛容さ。それとジョーやアメリカの不寛容さを関連付けているように見えるのだ。ピートが悩むのは、カトリックの教義がややこしいからだ。天国に行くための条件をいろいろつけて、人を縛ろうとする。そもそもユダヤ人は天国にいけないという。その不寛容さにピートは気づいていない。
ピートは最後にはその不寛容さを飛び越えてしまうわけだけれど、そこには大きな疑問が残るのだ。ラビ・ジェイコブセンがその疑問を一番感じている。ジョーから和解のしぐさを投げかけられても彼は戸惑うばかりなのだ。なぜなら彼はジョーを否定などしていないから、和解の必要などないからだ。 この映画は、アメリカという社会に存在する大きな陥穽のふたをさりげなくはずして見せる。そこには暗くて深い闇が存在していて、その底は見えない。
|