このシリーズは前作で忍者映画に新しい境地を開いた。そして、今作では忍者映画であることをやめたかのように、深い人間ドラマになっていく。前作で信長の部下に息子を無残に殺された五右衛門は信長に深い恨みを抱く。しかし、同時に身を寄せた一向宗の信仰心と利己的ではない心持にも深い共感を覚えている。五右衛門はそのあいだで引き裂かれ、しかし共通の敵である信長を撃つために旅立つのである。
それだけならば、西部劇のような単なる人情もののヒーローものになるわけだが、この映画には歴史が加わる。しかもそれは日本人の誰もが大好きな、信長・秀吉・家康の時代である。戦乱の世、天下統一を目指し、権謀術策を張り巡らせる彼らの戦いの歴史、その歴史のなかで明らかにならない空白をこの映画は想像力で埋める。信長が本能寺で明智光秀に殺される。そこまでに光秀を追い込んだものは何なのか。そして、実際に本能寺で信長が殺されたとき、そこで何が起こっていたのか。
現在からは決して明らかにならない、そのような歴史の空白、あるいは詳細を想像力によって埋めて、面白いドラマにしてしまう。それがこの映画の面白いところだ。
だから、今明らかになっている歴史の部分は揺るがすことはしない。歴史を折り曲げてまで五右衛門をヒーローにしないのだ。石川五右衛門もまた、伝説的ではあるが歴史上に語られている人物のひとりである。そして、この映画に登場する主要な人物のほとんどがそのようにして実際の歴史に登場する人々であるのだ。
そのようなある程度明らかになっている物語を面白く語るというのは、実はすごく難しい。ある程度結末のわかっている物語を語るわけだから、結末のわからない細部を魅力的に語らなければならない上に、それが事実からはみ出てはいけないのだ。
そのような視点からすると、忍者というのはすごく使いやすい材料だったのだと思う。どこへでも人知れず侵入し、様々な方法で人を殺める。そしてそのことによって対価を得ようとか、喝采を浴びようとかいうことはしない完全なる影の存在。
そのような彼らのキャラクターを強く押し出すため、前作に続いて忍者のスパイ的な部分がクロースアップされる。忍者は暗殺者である以前に、間者である。そのことが物語の上で重要になってくるのだ。
それはもうアクションではなくサスペンス、実際この映画にアクションシーンはあまりなく、登場人物のそれぞれが策略をめぐらせているシーンばかりで構成されているのだ。
歴史とサスペンス、そして忍者、こんな簡単に映画は面白くなるんだという見本のような作品である。
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