忍者というと手裏剣をシャシャシャっと投げ、軽い身のこなしで山野を駆けるという印象である。この映画の忍者も確かにそんな行動をとるわけだが、忍者個人ではなく、忍者社会なるものが描かれているので、そのように単純ではない。武将などに雇われて活躍する忍者ではなく、主体的に行動を起こすひとつの勢力としての忍者、そこでは彼らもまた様々な利害を持ち、内部にも対立を持つ。それは当たり前のことではあるが、忍者というもののイメージからはなぜか遠いもののように感じられる。そのあたりでもこの映画は面白い。
忍者映画が面白いのは、彼らが超人的な活躍をすることから来る。高く飛び、早く走り、忍術を使い、魔術のように姿を消す。それが面白いのだ。しかし、この映画の忍者はそのように見事には活躍しない。確かにその辺の侍よりは強いが、超人的というわけではなく、いろいろな術を知り、精神的に強靭であるから忍者以外に対して優位に立つというだけの話である。
それよりも、この映画で強調されているのは、忍者の諜報活動である。忍者の活躍の陰には綿密な諜報活動がある。存在感を消して情報を集め、どこで何が起こるのか、どこに誰がいるのかを徹底的に調べ上げる。そのことによって初めて相手の不意をつくことが出来る。そんな地味な部分に忍者の真価があると感じさせる。
そしてその諜報能力は、忍者たち自身にも向けられる。三太夫の命により世紀の大泥棒・石川五右衛門となった五右衛門がどこにいようと、そこには三太夫からの使者が現れるのだ。決して逃げることは出来ない。五右衛門はその諜報能力を知っているからこそ、決して逃げることは出来ないということがわかっている。そうして三太夫に縛られるのだ。
そのことがこの映画を面白くする。どこからともなく監視する視線、いったい誰が何を考えているのか、誰が味方で誰が敵なのか。そのような権謀術策が観客にスリルを与える。そして、映画の序盤で明かされる対立しているはずの三太夫と長門守が実は同一人物であるという設定。果たして、三太夫=長門守が考えていることは何なのか。
そのあたりの謎とスリルが面白い。市川雷蔵はそんな陰謀に翻弄される。そして、ただ翻弄されるだけでなく、忍者であることの意味というものを考え、悩み、ふてくされたりもするのだ。主人公がそんな人間的なヒーローであるところも面白い。雷蔵の演ずるヒーローにはいつもそんな優しげなところがある。そして、そんなところが女にもてたりする。忍者のクールなイメージとは少し違う主人公を雷蔵が見事に演じている。
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