この映画には面白さが生まれるひとつの形がある。それはやっている本人は至ってまじめなのに、その結果は間抜けとしか言いようのないことだという形だ。冒頭から熱心にバイオリンを弾くバイオリニストが登場する。彼はバイオリンを演奏するのと筋トレをすることしかやっていないようだが、そのバイオリンが決してうまいとは言えない代物だし、バイオリンそのものもなんだか安っぽい。その隣にはパックをしたり、パーマをしたり、ムダ毛を処理したりと美容に没頭するオバさん(というほどには年ではないが、決して若くはない)がいる。このふたりの真面目さがこの映画の全体のコンセプトとなる。彼らは真面目だけれど間抜け、それがこのモーテルにいる全ての人に通じる。
主人公となるクリスティナ・リッチ演じる4号室のリリアンとティモシー・オリファント演じる6号室のルークも至って真面目に変なことをする。一番いいと思ったのは、人生の終わりは30歳だと真面目に議論するところだ。確かにそれぞれの年齢で「○○歳になったら人生終わりだ」などと思うわけだが、それをふたりはくそ真面目に議論しているわけだ。その話にオチはなく、結局人生は30歳で終わりということになり、もう人生に絶望したと言っていた21歳のリリアンは宇宙飛行士になるために腕立て伏せでトレーニングをしているとわけのわからない話を始める。
しかし彼らは決しておかしな人たちというわけではない。それは「フツウ」といわれるレベルの常識からのズレに過ぎない。あるいはおかしさ=狂気の一歩手前というべきかも知れないが、少なくともわれわれの日常から地続きのおかしさでしかない。ただ、それがモーテルという一ヶ所に集められ、ぶつかり合うとおかしなことになるというだけなのだ。
しかし「フツウ」という概念自体が、このようなズレを平均したものに過ぎず、世の中に本当に普通な人などいるわけはないとも思う。彼らはこの映画の登場した部分ではおかしな人たちだが、そのほかの部分では至って普通の人たちなのかもしれない。
そんなことを考えつつ、最初2号室にいたはずのバイオリニストが途中で5号室にいるのはどういうわけかと考えてみたりする。1号室は、娼婦を呼んだふたり組、2号室はバイオリニスト、3号室はパックのオバさん、4号室はリリアン、6号室はルーク。ということは5号室は? リリアンが出て行った後もホテルは“no
vacancy”のネオンを出していたし…
もしかしたら、このホテル自体が人間の人格の暗喩、なのかも知れない。それぞれの客が持つおかしさとフツウさは誰しもがひとりの人間の人格の中に抱えている様々な側面なのかもしれない。デビュー作だから、監督もそれぐらいのことは考えてやっているんじゃなかろうか。などとも考えてみる。
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