おそらく「90分もこんなオタク女のたわごとを聞かされるのはたまらん」という人もいるだろう。しかし、他方で「わかるなー」と思う人もいるに違いない。精神的な病とはそういうものだ。体験していない人にはまったくわからない。
しかし、映画としては誰しもがそのような「うつ」な体験を多少はしているだろうという期待を込めて作られている。原題にもあり、映画の最後でも言及される坑うつ剤プロザックがアメリカで1年間に2億件処方されているということを考えても、アメリカ人の多くは「うつ」を抱えて生きているということだからだ。
しかし、実際のところはどうなのだろうか。私は決して多くの人がそれに共感できるとは思えない。多く見積もっても半分、おそらくはそれよりだいぶ少ない数のひとしかいないのではないかと思う。
アメリカでも実際はその程度の割合しかいないのだと思うが、私が邪推するところ、アメリカという社会自体が万年躁状態のようなもので、その躁についていけない人は「うつ」になってしまう、というある種の逆転現象が起こっているのではないかと思う。躁であらねばならないという強迫観念からうつに陥ってしまう。それゆえにアメリカはプロザック・ネイションになってしまったのではないかと思う。
ということだと思うが、それは映画の売り込み方の問題に過ぎず、映画そのものとはあまり関係ない。映画そのものは、非常に巧妙に作者自身の精神状態を描く。それは「うつ」というよりは情緒不安定といったほうがいいような気もするが、とにかく精神的に落ち込んで行っていることは確かだ。
そして、映画はそれをただただ描いているだけでもある。そのあいだに友達との関係や、両親との関係や、恋愛の話が出てくるわけだが、そのどれもが結局その「うつ」によってこじれて言ってしまう。悲劇に悲劇を重ね、精神的な落ち込みにスパイラルに巻き込まれ、ただただ落ちていくしかない。そんな中、救い主になりそうなふたりの人物(ひとりはセラピスト、ひとりは恋人)が表れるが…
結局のところこの映画が言っているのは、自分を救えるのは自分だけだということだ。しかしそのことを「うつ」の人に言うのはなんとも残酷だ。この映画の結末がなんともぼやんとした感じがしてしまうのは、そのあたりのあいまいさにあるのだと思う。「うつ」とは無関係の人にはまったく面白みがない一方で、「うつ」傾向のある人にとっても毒にも薬にもならない。見ながら「あー、あー」とは思うけれど「だから何なの?」となってしまう。この映画を受け入れるのは、「うつ」な人たちの周りにいる人たちだけのような気がする。
そんな中、映画の冒頭に唐突に登場するクリスティナ・リッチのヌードについて考えてみる。映画の文脈上は特に必要なわけでもなく、しかもその場面以外ではヌードは出てこない。それはセックスシーンにおいてもである。となると、このヌードには何か意味があるのではないかと考えてしまう。ひとつにはもちろん「うつ」に興味のない人たちをひきつける餌という意味があるだろう。
しかし、そういった商業的な動機付けを超えた意味があるような気もする。ヌードとはつまり裸の身体である。さらに言えば、それは人間の原初の状態、ありのままの「私」という意味を持ってくる。ということは、まずリジーにとって、家から出ることが新たな出発(再誕生)であることを意味しているだろうということになる。そしてさらに映画の全体を見渡した上で考えてみれば、心に覆いかぶさる様々な精神的な重荷を脱ぎ捨ててしまいたいという願望の現われでもあるのではないかと思う。精神は決してあのような裸の状態には決してなれない。その絶望感があの裸に表れていたのではないかなどと考える。
決して楽しい映画ではないが、クリスティーナ・リッチの迫真の演技は心のどこかに引っ掛かる。「うつ」というテーマよりもクリスティーナ・リッチがいいのだと思う。
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