ハリウッド映画がなんだか表面上は小難しくなっていく中で、このような映画の存在は貴重なのかもしれない。このハリー・ポッター・シリーズとピクサーのアニメとは基本的には子供向けのものながら、あるいは子供向けであるからこそ徹底的にエンターテインメントでありえている気がする。
この2作目は1作目よりも面白い。1作目はやはり原作を読んでいない人のためにいろいろと説明じみたエピローグ的な部分を入れざるをえず、導入としては面白いけれど、ひとつの作品としての完成度は… という感じだったが、今回は第1作を見ているという前提で始まっているので、そういう説明的な部分が省かれて、いきなり本題に入れる。最初は前作のことを忘れていても、しばらく見ていればいろいろと思い出してきて、すっと物語に入っていくことができる。
そうなってしまえばあとは魔法の世界の面白さでぐいぐいと映画を引っ張っていくわけだ。この映画が面白い最大の理由はこの映画があくまでも「魔法使いの世界」の中の話であるからだ。われわれの現実とは隔絶した別の世界で話が閉じているから、心地よく別世界のファンタジーに浸ることができるのだ。それぞれの魔法がいったい何なのかはわからないが、それを知りたければ原作や周辺知識を書いた本を読めばいいわけで、映画としてはそれを知らなくても楽しめるようにできている。
ということなので、とにかく楽しめればいいということではあるけれど、この作品から見えてくるのは、このシリーズにおいて“純血”というのが大きなポイントになっているらしいということだ。もちろん“純血”にこだわっているのはいわゆる「悪」の側で、ハリーたち「善」の側は“純血”なんてナンセンスだと考えているわけだけれど、“純血”が問題になるというのが非常にヨーロッパ的だと思ってしまう。映画の中で「純血なんてもうほとんどいないのに」というようなセリフが出てきたが、それはまさしくヨーロッパの現状で、しかしその中でネオナチのような人々が出てくるというのもヨーロッパの現状であるのだ。
ここで見えてくるのは、このシリーズで描かれている「魔法使いの世界」もまた現実の縮図でしかないということなのかもしれない。もちろんモデルとなる現実がなければ小説など書けるわけもなく、基本的な物事を現実によってしまうのは仕方のないことなのだが、今後現実に引っ張られすぎなければいいが。といういらぬ心配をしてしまいます。
それにしてもこんな“純血”という発想が出てくるというのはヨーロッパがいまだコロニアリズムの発想から抜けられていないということを意味しているのかもしれないなどと思う。特に“純血”の側が金髪の白人という形で描かれているのを見ると、なんとも居心地が悪い。
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