高峰秀子とはいったい何者か。この映画を観ながらそんなことを考えた。 高峰秀子はもちろん女優である。しかし、どのような女優なのか。この時代の女優にはそれぞれに「イメージ」が付きまとう。その代表的な例といえば「永遠の処女」原節子であるが、そのほかにも山本富士子といえば日本髪の美人とか、司葉子といえば「お嬢さん」というように、登場するだけで、そこに何らかのイメージが付きまとうのだ。
高峰秀子には持ちろん「名子役」というイメージがあった。しかし、大人になってからは、20代では『カルメン故郷へ帰る』でストリッパーを演じたと思えば、『二十四の瞳』では清潔な女教師を演じる。30代になって以降も『名もなく貧しく美しく』ではけなげに生きる聾唖のヒロインを演じ、『乱れる』では「女」を演じた。
この映画のとき、高峰秀子は30代後半で映画の設定と同じころあいということになる。ここでも「女」を演じているわけだが、それは「女」といわれてイメージするねっとりとした「女」ではない。強さと脆さが同居する女、飄々としているようで、うじうじしていたり、粗雑だったり、畏まってみたり、引っ込み思案だと思ったら、ずけずけとものを言ったり、そんな多様な顔を持つ女なのである。
それはもちろんキャラクター設定ではあるのだけれど、単純にそれが映画の設定であるから、というものを超えた存在感がこの映画の高峰秀子にはあるのだ。どう言葉で説明しようとしてみても、うまく伝えることはできないのだけれど、一つ一つのセリフが口をつくたびに、そこに言葉では表現できない情念や情愛や心情が表れて、ぐっと心をつかまれるのだ。
それが齢四十に達しようという女の艶というものなのか、はっきりしない男に向けて言葉を絞り出すとき、アップになったその顔を見て、こちらもぐっと手を握り締めてしまう。
淡島千景ももちろん素晴らしいのだ。素晴らしいのだけれど、この映画に限っていえば、そのよさというのは高峰秀子に対置され、対照されるものとしてのよさでしかない。あくまでも冷静で無表情に振舞う淡島千景も高峰秀子と同じくその裏に情念を湛えているわけだが、その情念の湛え方の違いによって高峰秀子を引き立てる。
その意味では仲代達矢などは小道具のようなものかもしれない。眼に見えない心情を眼に見えるするための道具、言葉にもできず、行動にもできない圭次郎に対する気持ちを、具現化するための対象。そのようなものとして映画に表れ、そして去っていく。
この映画はどこまで言っても高峰秀子の映画でしかありえない。それはつまり、高峰秀子と長年コンビを組んで「女性」を描いてきた成瀬にとっては、この映画は「女性」の映画であるということである。そして「妻」と「女」という女性の二つの立場を登場させて、その「女」について描いた映画であるということになる。
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