| 女優陣の演技がすばらしいとはあちらこちらに書かれていることなので、ここでは特に何もいわないが、とりあえず確かにそれぞれのキャラクターにうまくはまっていていいと思う。ニコール・キッドマンの顔の話は置いておいても、3人の中ではニコールが一番ダメというか、自然さを欠いていたような気もするが、それは演じる役と時代設定の難しさということなのかもしれない。
映画としてはとてもよくできた映画だと思う。ヴァージニア・ウルフという実在の有名な女性作家を題材として、その小説が現実へとかかわっていくというか、つながっていくところを物語にしていく。小説に描かれたことが現実になってしまった的なエピソード的な一致を描くのではなく、『ダロウェイ夫人』に描かれた女性像というものが時代を超えて普遍的なものなのだという信念によって物語が組み立てられているので、非常にスムーズで、そしてスリリングになる。こういう作り方をすると、逆に原作というか、基盤となるエピソード(つまりヴァージニア・ウルフのパート)とそれ以外の二つの時代とのつながりが希薄になって行ってしまいがちだが、その部分は映画的な手法で見事につなぐ。とくに、ローラ・ブラウン(ジュリアン・ムーア)のパートとのつながり方は、よくわからないという向きもあるかもしれないが、私はすごく映画的で面白いと思った。
少しネタばれになってしまうが、自殺をしようと考えたローラがホテルのベットで『ダロウェイ夫人』を手に取りしばらく読んで本を置き、横たわって眼を閉じると、濁流がベットの下から流れ出てくる。これはもちろん、冒頭のヴァージニアの自殺のシーンとリンクしているわけだから、自殺の明確なメタファー(矛盾しているが、そうとしか言いようがない)である。そして、ヴァージニアはその時(映画上で並置されているというだけで、別に具体的な時間のつながりがあるわけではもちろんないのだが)、主人公に自殺させるかどうするかと悩んでいる… というつながりである。ちょっと『マグノリア』的な不思議さもあるが、すごくうまいやり方だと思う。小説の主人公とローラとのつながりはあくまでも内面的なものでしかなく、しかも小説のほうの物語は一切解説されないわけだから、映画を見ている側としてみれば、ローラとヴァージニアがつながっているということがなかなか感じ取れないまま映画を観進めてしまっているわけだ。それがこのシーンで、ピタッとつながる。この語り方のうまさにはうならせられる。
クラリッサ・ヴォーン(メリル・ストリープ)とヴァージニアとのつながりは、リチャードが彼女のことを「ダロウェイ夫人」と呼ぶことから表面的ではあるが明確に現されている。
残るはローラとクラリッサのつながりということになるが、ここも非常に巧妙で、ここがつながることで映画全体として見事なまとまりを持つということになるのだ。
ハリウッド映画としては非常に地味で落ち着いた作品であるように見える。ハリウッド映画を主に観る人には、なかなか意外な面白さを持って見られるだろうし、ハリウッド映画はちょっと… という人でも「ふぅ〜ん」という感じで見ることができる映画だと思う。
内容的にも「女性について」語った物語であるということが前面に押し出されているというのも興味を引く理由になるかもしれない。とはいえ、女性というものについて何か考えられているかというと、そこはどうなのだろうか? という気がする。女性というよりは人全てにかかわる問題が主題になっていることは確かだが、それは問題として投げかけられただけで終わってしまっているから、この映画のエッセンスというわけではないのだと思う。そのあたりがこの映画の弱さでもあるが、逆にハリウッドらしさが出たところでもあるのだと思う。
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