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幸福の鐘

2003/11/21
2002年,日本,87分

 
            
     
 
 突然に工場が閉鎖され、工員たちが呆然とする中、工員のひとり五十嵐は作業着のままその場を後にし、たまたま目にしたバスに誘われるように乗る。そして街中に着いた彼は、ふらふらと歩き始める。そして川辺で座っていると、やくざ風の男が突然「臓器提供の申し込みをしたんだ」という話を始める。あっけにとられる五十嵐の目の前でそのやくざは息絶えた。そこから五十嵐の不思議な「旅」が始まる…
 疾走間のあるアクションを撮り続けてきたSABU監督がどっしりと腰を落ち着けて撮った「歩く」映画。主役も堤真一ではなく寺島進を据え、淡々とした物語をうまく紡ぎだした。
監督 SABU
脚本 SABU
撮影 中堀正夫
音楽 村瀬恭久

出演 寺島進
    篠原涼子
    益岡徹
    塩見三省
    鈴木清順
    板尾創路
    白川和子
    サブ

 

 

 

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 この映画は“音”の映画だ。主人公五十嵐の聞く主観的な“音”の世界。そこでは何かの音が極端に大きく聞こえたり。まったく音が聞こえなくなったりする。音というのは世界に偏在しているもので、ひとによってどう聞こえるかはまったく違う。マイクというのは基本的にすべての音を同じ重さで拾い、それをそのまま再生するわけだが、人の耳というのは自分が聴こうとする音を大きな音として拾い、それ以外の音は無視するはずだ。そして、音以外のものに意識を集中している場合にはまわりの音はまったく聞こえなくなったりもする。この映画はそのようにして作り上げられる主観的な“音”によって語られる映画だといえる。
 映画の狙いとしてはその“音”による語りを強調するために主人公からセリフを奪った。主人公がどのように“音”を聞いているかによって主人公は自在に自分の考えを語り、聞く音によってすでに語ってしまっている以上、自ら“音”を発する必要はなくなってしまうのだ。
 主人公にセリフはないが、決してしゃべっていないというわけではない。カメラに映っていないところではしゃべっている風である。そこに脚本/監督の明確な意図が感じられるわけで、だから見る側としては注意深く“音”を聞かなくてはならない。

 セリフがないとすると、もう一つわれわれに語りかけるのは映像ということになるわけだが、この映画の映像はきれいだし面白くはあるけれど、必ずしも主人公に加担するわけではない。時折主人公の視点からの視線が挟み込まれはするけれど、観客を主人公の立場に誘い込むようなものではない。つまり、“音”が徹底的に主人公の主観から使われるのに対して映像はやや客観的な他者の眼差しとして存在しているということだ。

 このようにして主人公への観客の一体化を避けるのはこの監督がデビュー作の『弾丸ランナー』から一貫してテーマとしてきた日常と非日常の関係性という問題に係わってくるのかもしれない。この映画もまた主人公が偶然から非日常の世界に入り込むという物語構成になっているわけだが、そのような構成をとっている以上、観客は日常と非日常のどちらからも距離を置いて物語り全体を見なくてはならないことになる。主人公と同一化することは日常と非日常の関係性を見るよりは、その行き来を経験することになるから、狙いから外れてしまうということになってしまうように思える。